201817日 ウェストミンスター小教理問28

 

 

 

キリストの高挙(こうきょ)は、どの点にありますか。

 

キリストの高挙(こうきょ)は、次の点にあります。キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと、天に昇(のぼ)られたこと、父なる神の右に座(ざ)しておられること、終わりの日に世をさばくためにこられることです。

 

 

 

 十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストは、弟子(使徒)たちに現れ、十字架のみ傷(手と足)をお見せになりました。そのとき、弟子たちは、絶望と恐れから解放され、大きな喜びにあふれました。そして、復活の日から40日目には、ベタニアのあたりで、弟子(使徒)たちを祝福しながら天に上げられた、イエスを伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で、神をほめたたえつつ、祈りを一つにして、聖霊降臨の日を待ちました。

 

 今、わたしたちが、天地を造られた神において、高く上げられたキリストを信じるとき、弟子(使徒)たちと同じように、失意と絶望のどん底から、慰めと喜び、希望と讃美へと引き上げられます。

 

 それは、イエス・キリストが「へりくだり」と「高挙」の御業において、永遠の神の独り子でありつつ、罪のない人間のご性質をお持ちのままで、新しい復活の体において、わたしたちの復活の初穂となられたばかりでなく、父なる神の右の座にお着きくださって、まことの王としての支配と執り成しの中に、わたしたちを絶えず導いておられることを信じることそのものです。

 

 聖霊降臨の後、ステファノは、神の約束とその実現を物語り、「いと高き方は(幕屋や神殿のような)人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と告げ、キリストが来られることを預言した人々を殺した罪を明らかにしました(使徒言行録7章48、52節)。そして、ステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と証しし、なおも石を投げつける人々のために、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、祈りつつ、眠りにつきました(使徒言行記録7章56~60節)。

 

 今日も、わたしたちと共におられるキリストを信じ、祈りをささげましょう。

 

 

 

 聖書の言葉 

 

 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、わたしたちこと神の家なのです。 

 

                    ヘブライ人への手紙3章6節

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、御子イエス・キリストが、誘惑と試練と迫害の中でわたしたちを守ってくださり、罪を執り成してくださっていることを感謝します。どうか、日々、あなたの御守りを信じ、わたしたち自身と兄弟姉妹たちと人々のために罪のゆるしを請い願いつつ、あなたにのみ希望を抱く者としてください。真実の救い主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

 

2018年6月10日 ウェストミンスター小教理問27

キリストのへり下りは、どの点にありましたか。
キリストのへり下りは、次の点にありました。キリストが生まれられたこと、それも低い状態であられたこと、律法のもとに置かれたこと、この世の悲惨と神の怒りと十字架ののろいの死を忍ばれたこと、葬られたこと、しばらく死の力のもとに留まられたことです。

 イエス・キリストの「へり下り」と訳された言葉(humiliation)は、もともと、「恥をかく、かかせる」事という、人間の屈辱と卑しさを表します。
 自分から進んで恥を忍ぶようなことをすることは、誰もがもちろんできることなら避けたいこと、したくないことです。
 しかし、イエス・キリストは、永遠の神の独り子でありながら、その栄光の内に存在することよりも、ご自身が造られた土の器である人間のお姿を取られたばかりでなく、罪の世の中で、自ら、ご自身を地上に遣わされた御父を呼びつつ、祈りと献身の道を十字架の死に向かって生きる、義の僕としての道を歩まれました。
 それは、ただ、ご自身の選びの民の負う、罪の贖いのためであり、神の義は、罪のない方が、身代わりとなって、神の怒りと呪いを、十字架の死において、その身に引き受けられたことにおいて、その怒りをなだめ、呪いを祝福に代えてくださったのです。
 キリストは、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネによる福音書10章18節)、全能の神であるからこそ、罪人を死から命へと贖い出してくださる御方なのです。この御方が、墓に葬られたのです。それは、キリストが本当に死なれたことを意味します。そして、三日目に復活されました。
 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(ヨハネによる福音書3章14節)との御言葉のとおりに、キリストが、すべての選びの民の身代わりの屈辱的犠牲を、ゴルコタの丘の十字架の上に、人々の殺意と侮辱の声の中でささげられたことを認め、忍耐と従順の道を共にしましょう。

 聖書の言葉 
 キリストは御子であるのもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。               ヘブライ人への手紙5章8節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストが、ご自身の栄光をあらわすために、この世にお生まれくださり、十字架の死に至るまでその身に負われた、恥辱と苦難の道が、唯一で完全な贖いの犠牲であり、わたしたちが、人を分け隔てすることなく、謙遜に尊重し合う、理性的礼拝と生活へと導かれていることを信じます。唯一の主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年6月3日 使徒信条

  我は、・・我らの主、イエス・キリストを信ず。(とくに「我らの主」)

 わたしたちが、イエス・キリストを「主」と告白するとき、「唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリスト」(ユダの手紙4節)と告白されるとおりに、「支配者」「主人」と意味合いと同等のものを含みつつ、さらにまさって、「全能の神」「主権者」でいます御方という意味があります。
 そして、「アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」(イザヤ書63章16節)と告白され、また、「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザヤ書64章7節)と、創造主である神の御業を信じ、神である「主」を「父」と呼び、神の家族とされたことを告白するのと同じように、わたしたちは、イエス・キリストを「わたしたちの主(主人、また、全能の神)」と呼び、この御方にのみ従う「僕」(しもべ)であること表明しています。
 それは、弟子のトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネによる福音書20章28節)と、復活されたイエス・キリストを見て、叫んだように、神の独り子イエス・キリストを、まことの神として認識し、この御方にのみ従っていく、礼拝者、献身者であり奉仕者とされたことを誓約する、信仰告白そのものです。
 さらに、イエス・キリストは、わたしたちを「兄弟」と呼ぶことを恥じとしないで、「ここに、わたし(イエス・キリスト)と、神がわたしに与えてくださった子らがいます。」(ヘブライ2章13節)と宣言してくださる御方です。
 また、「主であり師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13章14節)との主の謙遜に従って、互いに、罪を赦し合いましょう。

 聖書の言葉 
 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
                  エフェソの信徒への手紙1章7節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの血と命によって、わたしたちを、あなたを愛する神の家族の一人としてくださったことを感謝いたします。どうか、日々、イエス・キリストを「わたしたちの主」また、「神」と告白しつつ、聖霊の恵みの中に、ただあなたの救いの光の中を共に歩ませてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年5月27日 ウェストミンスター小教理問26

キリストは、どのようにして王職を果たされますか。
(答え)キリストが王職を果たされるのは、私たちを御自身に従わせ、治め、守って下さること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。

 イエス・キリストは、十字架に引き渡される前に、エルサレムに入城されました。そのとき、ご自身が備えておられた子ろばに乗られました。それは、軍馬のような権力を誇示するものではなく、むしろ、イエス・キリストの謙遜を表します。
 ですから、イエス・キリストが王職を果たされるとき、それは、強権によって人間を服従させることを知ることを求めているのではなく、むしろ、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」(マタイによる福音書11章29節)と、命じられているとおりに、イエス・キリスト御自身の謙遜に学ぶことです。
 それは、具体的には、神の恵みの支配(神の国)を求めつつ、主の律法に従うこと(神の義)です。また、キリストが、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」「へりくだった、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)であったことを学ぶことです。
 このように、キリストが王としての働きにおいて、「私たちを御自身に従わせる」という、罪の支配から義の支配へ、傲慢から謙遜への転換をもたらします。それは、神の憐れみによる、神との和解の道、謙遜と従順の道です。
 ひとたび、恵みによってご自身の義とされた者たちを、キリストは、御言葉において支配し、あらゆる敵(悪魔の勢力)から守ってくださり、御心を求めて祈るように導いてくださるのです。主の恵みの支配の中を歩みましょう。

 聖書の言葉 
 わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
 キリストは御自身を否むことができないからである。
                      テモテへの手紙二2章13節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちはキリスト共に死んだ者として、キリストと共に生きます。どうか、この主キリストが、わたしたち一人一人に最も近くおられる御方であり、聖霊のご支配の中に、絶えず、導いておられることを信じ、人の思いではなく、あなたの御業と御心、救いの言葉を求めて祈ることへと導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年5月20日 ウェストミンスター小教理問25

キリストは、どのようにして祭司職を果たされますか。
キリストが祭司職を果たされるのは、神の正義を満足させて私たちを神に和解させるために、御自身をいけにえとしてただ一度ささげられたこと、また私たちのためにとりなし続けてくださることにおいてです。

 十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、イエス・キリストは、預言者、祭司、王の職務を果たしておられます。そして、とくに、「キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられ」(ヘブライ人への手紙9章11,12節 新改訳2017)た御方です。
 それは、旧約の時代においてあらかじめ表され、幕屋と神殿において、祭司によって、繰り返しささげられた、神の御前に罪を宥めるための、犠牲と執り成しの更新であり、神の要求する正義を満たす、完全なものでした。
 ですから、「神の憐れみによって、…自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき[理性的・霊的]礼拝です」(ローマの信徒への手紙12章1節)と命じ、宣言されるように、聖霊なる神は、わたしたち自身を礼拝者、献身者として召し出し、全面的な礼拝生活に導き、神との和解という力強い慰めと確信を与えておられます。
 それは、全面的に堕落した罪人の内に、聖霊の恵みによって成し遂げられる霊的変革です。ステファノが殉教した時、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒言行録7章56節)と証言したように、今、復活・昇天された、主イエスは、わたしたちのために執り成し、教会と礼拝を守っておられます。今日も、ただお一人の慰め主でいます、主の霊によって、主の贖いを心からほめたたえましょう。

 聖書の言葉 
 まして、永遠の“霊”によって、御自分をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。   ヘブライ人への手紙9章14節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストが、あなたの御前に、あなたの正義を満たし、あなたとの和解の道を開いてくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが礼拝をささげる度ごとに、ただ、あなたの御名において呼ばれている者であることを告白し、いよいよ、主の贖いの恵みに生かし導いてください。主イエス・キリストの御名によて祈ります。アーメン。

 

 

2018年5月13日 ウェストミンスター小教理問24

キリストは、どのようにして預言者職を果たされますか。
(答え)キリストが預言者職を果たされるのは、御自身の御言葉と御霊によって、私たちの救いのために神の御意志を私たちに啓示してくださることにおいてです。 

 イエス・キリストが来られる前の時代(旧約時代)、において、主の栄光の中に、十戒の二枚の石の板を直接与えられたモーセや、主の言葉が臨んだイザヤ、エレミヤ、ダニエル、などの預言者は、御言葉をイスラエルの民に告げることによって、民を堕落と腐敗、不潔から、神に立ち帰るように命じ、生けるまことの神を礼拝するにふさわしい生活の実態を回復しようとしました。
 まことの神を信じる信仰は、「信仰は聞くことにより」(ローマの信徒への手紙10章17節)始まるのです。なぜなら、決して、すべての人々は、堕落のゆえに心がかたくなで、御言葉と聖霊による照明を必要としているからです。
 イエス・キリストは、旧約時代の預言者が、御言葉を告げることはできても、人々を回心される力をもっていなかったのとは異なり、ご自身の御力によって、人々を悪魔の縄目から解放し、神に向かって回心させ、命に至る悔い改めに導くことがおできになる御方です。
 そして、「わたしが来たのは・・律法や預言者を、・・完成するため」(マタイによる福音書5章17節)と言われました。それは、自ら、律法と預言者の主であるにもかかわらず、主の律法に服され、ご自身の十字架と復活の御業において、神の約束を成し遂げてくださることにおいて、「律法の目標(終わり)」(ローマの信徒への手紙10章4節)となられたことを示しています。
 また、イエス・キリストは、「わたしはこの岩(神の啓示の言葉:信仰告白:福音宣教の使命)の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイによる福音書16章18節)と約束してくださり、ご自身の御言葉を上に固く教会を建て上げておられます。
 今日、キリストの言葉を聞くことによって、わたしたちも、新たな力と慰めと平安の中に、神との和解を与えられ、霊の交わりを一つにしましょう。

 聖書の言葉 
 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器の中に納めています。
                  コリントの信徒への手紙二4章7節
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストが、わたしたちに福音を告げ、聖霊の御力によって、心を開き、ご自身の命を与えてくださることを感謝いたします。キリストの教会が、世界のすべての人々に、キリストの福音を告げる器とされ、主の救いの御業において、いよいよ、神の栄光をあらわすことができますように。主イエス・キリストの御名によて祈ります。アーメン。

2018年5月6日   使徒信条

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを・・を信ず。

 十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストは、復活の日、弟子たちの間に立たれ、「聖霊を受けなさい(取りなさい)」(ヨハネによる福音書20章22節)と命じられ、罪の赦しを宣べ伝える福音宣教へ弟子たちを召し出されました。
 そして、キリストの復活から50日目の聖霊降臨の日に、約束の聖霊が降り、使徒(弟子)たちは、十字架にかけられたイエスこそ、神の約束の救い主、キリストであることを、聖霊の証言と聖書の約束に基づいて、公然と人々に語り告げ、三千人の人々が回心し、洗礼を受け、初代教会の一員とされます(使徒言行録2章)。
 父と子と聖霊なる:三位一体の第三位格である、聖霊なる神は、「私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ、私たちの心をキリストを知る知識に明るくし、私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。」(ウェストミンスター小教理問答問31:有効召命)そして、この聖霊の御業において、キリストを唯一まことの贖い主、救い主と受け入れた者たちは、「この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられ」(同問32)るのです。
 このように、聖霊なる神は、じっさいに、御言葉に聞く者たち心に働いてくださる御方であるばかりでなく、わたしたちを固くキリストと結び合わせてくださり、キリストを頭とし、キリストの体なる教会の一員として、この世で生きる時も、死ぬ時も、キリストのもとに、わたしたちを祝福し導いてくださるのです。
 キリストの教会は、使徒信条の告白するとおりに、キリストにおいて、聖なる神のものとされた、公同の教会です。この公同とは、唯一の主キリストの教会において、真のカトリック・普遍的・一般的・世界的教会という意味です。
 そして、聖霊を与えられた教会は、その賜物を分かち合う群れとして、キリストの愛を表します。それは、互いに一つの体であり、各自が、その部分であることを認め合うことです。今日も“主”の御名において告白を一つにしましょう。

聖書の言葉
  つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
                 コリントの信徒への手紙一12章13節
わたしたちの祈り
 天の父なる神よ、愛する独り子イエス・キリストが身代わりになられた罪の赦しを、聖霊の御業においてわたしたち一人一人に与えてくださり、感謝します。どうか、わたしたちの教会が、ただ、キリストの血によってあなたのものとされた、聖なる公同の教会であり、主において一つであることを、確かに信じる者としてください。主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年4月29日 ウェストミンスター小教理問23

キリストは、私たちのあがない主として、どういう職務を果たされますか。
(答え)キリストは、私たちのあがない主として、預言者、祭司、王の職務を、へり下りと高挙とのどちらの状態においても果たされます。

 キリストという御名は、わたしたちにとって、二つの意味をもっています。一つは、旧新両約聖書において、聖書全体の証する約束の救い主、メシア、キリストである、ということ、そして、もう一つは、神が油注がれた、まことの預言者、祭司、王の職務をもって、働いておられる御方である、ということです。
 この教理問答では、とくに、キリストを「私たちのあがない主」と呼び、祭司職を中心にして、預言者、祭司、王の職務という順で、その働きを明らかにしています。
 それは、イエス・キリストの二つの状態において果たされます。第一に、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」(フィリピの信徒への手紙2章6,7節)たことにおいて、示された、へり下り、謙卑の状態において。第二に、十字架の死から三日目に復活された後、弟子たちに現れ、40日目に、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」(ルカによる福音書24章51節)、「神は、・・天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれ」(エフェソの信徒への手紙1章20、21節)た、神が高く挙げられた、高挙(こうきょ)と呼ばれる、状態においてです。
 今、わたしたちは、十字架の言葉、福音が語られ、罪の告白へと導かれ、悪魔のすべての誘惑から守られて、礼拝を守ることをゆるされています。そのすべてが、キリストの三つの働きのゆえです。御名と働きを覚え祈りましょう。

 聖書の言葉 
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
                  ルカによる福音書3章20、21節
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストのへりくだりと高挙において、あなたの栄光をあらわしてくださり、感謝いたします。聖霊の導きの内に、わたしたち一人一人が、キリストの体なる教会の一員として、キリストの預言者、祭司、王の働きに仕え、御言葉を語り、罪を執り成し、心と考えを治める者としてください。主イエス・キリストの御名によて祈ります。アーメン。

 

2018年4月15日 ウェストミンスター小教理問21

神の選民のあがない主とは、どなたですか。
神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。

 イエス・キリストについて、ヨハネによる福音書は、その 冒頭で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言い、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」と言います。それは、永遠の子が人となられたことの、決定的な、神の啓示です(1章1、14節)。
 この神の言葉を信じるとき、わたしたちは、永遠の神の御子が、神でありつつ人となられたことが、真実であり、御子こそ、「言」と呼ばれるように、神の啓示者ご自身であることを知ります。
 そして、この教理問答の言う「神でありつつ」という一句を除いて、人間理性に説得できる仕方で説明しようとするとき、神であったお方が、人間の姿を取られたのは、仮の姿であったとの安易な主張、あるいは、人間イエスを、世の宗教同様に神聖視された現人神として、偶像視する罪に陥ります。
 しかし、聖書の教理は、「神と人を和解させるべき仲保者は、それぞれの本性に固有の御業が一人格全体の御業として、私たちのために神に受け入れられ、また私たちがその御業に依り頼む者となるために、御自身、神でありつつ人であり、しかも一人格においてそうでなければならなかった」(ウェストミンスター大教理問答問40)ことを、神の救いの御業として明らかにします。
 御子イエス・キリストの十字架の死からの復活は、このように、一人格において神でありつつ人とならねばならなかった(これを「二性一人格」と呼びます)からであるからこそ、成し遂げることのできたことを信じ、この“主キリスト”の御名において、真実の礼拝をささげましょう。

 聖書の言葉
 キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに価します。わたしは、その罪人の中で最たるものです。                テモテへの手紙一1章15節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、十字架の死から三日目に復活されたイエスこそ、あなたの御子であり、まことの救い主であることを知り、わたしたちが、あなたの御前に救いを必要する罪人であることを示され、感謝いたします。どうか、イエスがいつも共におられることを信じ、主イエスを愛し、救いを喜ぶ者とさせてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り、願います。アーメン。
 

 

2018年4月8日 ウェストミンスター小教理問20

神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。
(答え)神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。それは、ひとりのあがない主によって、彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。

 ただ一人のあがない主でいます、イエス・キリストが、聖書に書いてあるとおり、十字架の死から三日目に復活されたことにおいて、わたしたちは、聖霊の恵みの内に、信仰によって、キリストと結び合わされ、救いの状態に入れられました。これは、一方的な神の恵みの御業によることです。
 「神の御心によって、キリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(エフェソの信徒への手紙1章1節)は、復活の後、昇天された、主イエスの御声を直接聞いて回心し、すべての人々に、キリストの福音を伝え、主イエス・キリストの父である神をほめたたえて、こう言いました。
 「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(3,4節)それは、「イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」(5節)ことでした。
 このように、聖書は、罪人の救いは、人のどのような功績にもよらず、神の永遠の救いのご計画(聖定)が、歴史的には、恵みの契約において、ただ、御子イエス・キリストのあがないとその祝福の命にあずかる仕方で、実現することを証ししています。
 「罪と悲惨の状態からの救助」され、「救いの状態」に入れられるとは、具体的は、まことの礼拝者とされる、ということです。今日、聖霊の恵みによって、イエス・キリストを証しする聖書の言葉に耳を傾け、心を開かれ、共に、
“わたしたちの主イエス・キリストの父である神”をほめたたえましょう。

 聖書の言葉
 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。      テモテへの手紙二1章10節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の十字架の死において、神の怒りと呪いの死が滅び、御子の十字架と復活を信じる者に、契約の祝福と新しい命を与えてくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが、御子の命において、罪と悲惨から救われ、召しと選びを一つにし、御名の栄光を現す神の子として導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

201841   使徒信条

 

 

 

主は、・・・十字架につけられ、死にて葬られ、・・・三日目に死人のうちよりよみがり、・・・

 

 

 

  主イエス・キリストの十字架と復活は、ただの人間の蘇生・(ラザロのような)復活ではなく、永遠の神の御子の復活であり、聖書に書かれている神とイエス・キリスト御自身の約束の実現でした。とくに、ポンテオピラトとのもとで罪を認めなったにもかからわず、引き渡された、「十字架の死と葬り」と「三日目の復活」が、御子イエス・キリストお一人だけの特別な死の在り方を特定しています。

 

 そして、イエス・キリストの十字架の死と復活を思い起こすとき、とても大切なことは、この御業が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)のものであった、という事実です。この「永遠の命を得る」とは、具体的には、わたしたちが、イエス・キリストの御名において、神と共に生きる者、まことの神を礼拝する者とされることです。

 

 「このように、天にあるものの写し(注:地上の幕屋や神殿などの礼拝形式)は、これらのものによって清められねばならない(注:それ自体では贖う効力がない)のですが、天にあるもの自体(注:永遠の神が礼拝されている天の幕屋)は、これらよりもまさったいけにえ(注:キリストの完全な犠牲)によって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」(ヘブライ人への手紙9章23、24節)と聖書は、本当の天国はキリストの内にあることを教えます。

 

 このキリストがただ一度の死と復活をもって、神の義を満たす完全な贖いと復活の初穂となられたことにおいて、わたしたちは、神の子とされて、神の御前に生きる礼拝者とされ、キリストが再び来られる日の復活を待ちます。

 

 それは、どのような死の恐怖や試練、失意の中でも、わたしたちに本当の希望、祈りの魂(たましい)を呼び起こす、神の力、福音、良きおとずれです。今日、このキリストの福音を聞いて、信じる人にこそ、天の国は近いのです。

 

 

 

聖書の言葉

 

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。ローマの信徒への手紙6章10節

 

           

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神よ、ただ、あなたの深い憐れみによって、今、御子イエス・キリストもとに招いてくださり、感謝します。どうか、あなたの御心を明らかにする聖書のみ言葉に聞き、心を開かれて、あなたの与えてくださった本当の救いの道を一途に生きる者にしてください。わたしたち一人一人の、祈りと献身と生活が、十字架と復活の主の御業を信じ、天の国を真心から望むものでありますように。わたしたちの主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

 

2018年3月25日 ウェストミンスター小教理問19

人が堕落した状態の悲惨とは、何ですか。
全人類は堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。

 神が造られた最初の人、アダムにおける全人類の堕落において、人間は、神との交わりを失いました。そのため、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェソの信徒への手紙2章3節)であり、神の「のろいのもとにあります」(ガラテヤの信徒[人]への手紙3章10節 新改訳)。
 堕落した人間(罪人)が皆、この神の怒りとのろいのもとにあることを自覚している訳ではありませんが、多くの宗教が、神々の怒りとのろいを恐れ、それからの清めを自らの儀式・行事によって取り除こうとします。
 しかし、それらの外面的な儀式で、神御自身の怒りののろいがなだめられることはなく、かえって、偶像礼拝の罪を重ねています。
 ①この世でのあらゆる悲惨②死そのもの③永遠の地獄の刑罰、という三重の責め苦を、わたしたちは、日々、義なる神の御前に、負っています。
 主イエス・キリストの負われた十字架の苦しみは、神ご自身が、決して、人間の「不従順と背反」(ハイデルベルク問10)を見逃されないお方であるばかりでなく、その罪のすべてを永遠に罰するお方であることを明らかにしています。
 この意味で、わたしたちは、自分の罪責感に頼って、罪の重みをはかるのではなく、主イエス・キリストが負われた十字架を見て、はじめて、神の御前に、自分の罪を心から悔いることへと導かれていくのです。そして、イエスを迫害する者から、イエスを主を告白し、福音を伝える者に変えられたパウロのように、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章24節)と叫びつつ、「 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝」(同25節)をささげるのです。今日も、主のもとに来て、主の救いを感謝しましょう。

 聖書の言葉
 わたし(イエス・キリスト)につながっていなさい。わたしもあなたがた(神の召し出された者、一人一人に、)につながっている。
                    ヨハネによる福音書15章4節                          
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する御子イエス・キリストの命を、わたしたちの罪を贖い、永遠の刑罰の死から救い、永遠の命を与えてくださる、唯一の犠牲(いけにえ)としてくださったことを感謝いたします。どうかいつも、聖霊によって、御子イエス・キリストの命とつながり、あなたの愛の内に、生かされていく者としてください。イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。
 

 

2018年3月18日 ウェストミンスター小教理問18

人が堕落した状態の罪性は、どの点にありますか。
人が堕落した状態の罪性は次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていることです。

 聖書の教える原罪論は、世の宗教から出てきた性善説や性悪説とは異なり、人間の全面的不能を、人間の経験的で感覚的な考察によるのではなく、絶対的な神の義と、原初的かつ歴史的事実において明らかにするものです。つまり、すべての人間は、この聖書の真理において、原罪を負っているのであり、その中で、あらゆる宗教の不明と限界、罪が生じていると言うことができます。
 しかしながら、人間の堕落した状態の罪性は、「人の性質全体の腐敗」「そこからあらゆる現行罪が生じている」という実態において証明されています。事実、個人・集団・国家等における、悪事(犯罪、戦争等)は繰り返されています。それは、決して、当事者だけのものではなく、アダムの最初の罪責を負っているという、極めて深刻なものであり、ただ、主イエス・キリストの十字架の贖いにおいてのみ、真の解決、回復、救いを見ることのできるものです。
 なぜなら、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」(ローマの信徒への手紙5章18節)からです。
 イエス・キリストの十字架の死は、公然と社会的犯罪者の一人(バラバと引き替え)として裁かれた死であったことに注意したいと思います。それは、「あらゆる現行罪」の中に、社会的犯罪も含むことを意味しています。
 心と言葉と行いにおける、あらゆる罪の根源には、神に対する敵対と背信があり、偶像礼拝があります。その罪を負っていることは、表面的で経験的なことではなく、深い性質に属することであり、皆、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)のです。聖霊の導きにより、十字架の主、キリストのもとに来て、救いを求めましょう。

 聖書の言葉
 わたしは咎(とが)のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです。          詩編51編7節                          
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたのかたちにかたどって造られた人間は、アダムにおいて、原義を失い、原罪を負い、現行罪を生じています。日々、御子の十字架の死と復活を体にまといつつ、聖霊の恵みによって、心と言葉と行いにおいて、光の子として歩み、あなたの救いの喜びと慰めに生かしてください。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

201811日 ウェストミンスター小教理問17

 

 

 

 堕落は人類をどんな状態に落としましたか。

 

 堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。

 

 

 

 「人間とは一体何者か」という問いについて、アダムにおいて堕落した全人類は、自らの状態をもとに答えを出すことができません。それは、わたしたち人間は、罪と悲惨の状態にあり、信仰は、初めから、罪と悲惨の状態を脱し、希望を抱く「基礎」であり、人間の「本質を満たすもの」であるからです(ヘブライ人への手紙111節「確信」の元の意味)。

 

 ですから、神がおられることを認めようとしないとき、人間は、言わば、糸の切れた凧のように、世の言いなりに、世をさまよいます。しかし、それは、決して、神のかたちにかたどって造られた人間の本来の姿ではありません。

 

 堕落の結果、自らを神に造られた良きものと認められないゆえに、人間は、罪をむさぼり、その結果、自ら悲惨と死を身に負う者となったからです。

 

 主イエス・キリストは、このような人間の負っている罪と悲惨の状態、そのすべてを知っておられ、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイによる福音書5章3,4節)と教えられました。

 

 それは、本当の幸いは、心底、人間の罪と悲惨を知り、罪を悲しみつつ、罪からの救いを求めていることにあると告げられたのです。

 

 つまり、人間は、神の御前に、自分のありのままの状態、つまり、罪と悲惨を認めたとき、この罪と悲惨を、わたしたちの身代わりに負ってくださった、主イエス・キリストもとに来て、本当の幸いを得るのです。

 

 主イエス・キリストは、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネによる福音書7章38節)と約束されました。

 

 信仰とは、聖霊の恵みによって、生きる命の源です。この信仰によって、心と魂の底から、主の救いを喜びましょう。

 

 

 

 聖書の言葉

 

 いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。  

 

                           詩編32編1節

 

                     

 

 わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、愛する独り子が、わたしたちの身代わりとなって、十字架の死において、罪と悲惨のすべてを負ってくださったことを、ただ、あなたの深い憐れみによることと信じ、感謝したします。どうか、日々、あなたの深い憐れみによって、罪からの救いを喜び、信仰から信仰へと、あなたの共に歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

201834   使徒信条

 

 

 

主は、・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

 

 

 

  主イエス・キリストは、十字架の苦しみを受けられました。それは、ご自身の死が、その動機において人の殺意によるものであっても、神の前には、神の義を満たす、ご自身の民の身代わりの死であり、贖罪死であったことを物語るものです。

 

   この歴史的事実のみならず、神の真実を証しする一人の人物が、ローマの総督ポンテオ・ピラトです。それは、ユダヤの人々には、ローマの官憲のもとでなければ、犯罪人を処罰する権限がなく、当時の宗教的指導者たちは、宗教裁判を装いながら、ポンテオ・ピラトに訴え死刑にする口実をイエスに求めました。しかし、「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」(マタイによる福音書2660節)のです。

 

主イエスは、大祭司の執拗な尋問において、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイによる福音書2664節)と預言され、人の口実によらず、かえって、ご自身の告げられたみことばへの反抗において、宗教裁判においては、神への冒瀆という罪をもって、ピラトの裁判にかけられていくのです。

 

   ピラトは、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マタイによる福音書2718節)ので、過越の祭りの時の慣習に従い、バラバ・イエスか、メシアと呼ばれるイエスか、(イエスという名は、当時の一般的な名前)と、一人の恩赦を求めます。しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処するように群衆を説得し、二者択一を促すピラトの声に、群衆は、バラバの釈放と、主イエスの十字架を求めます。

 

   ピラトは、一度も、イエスに罪を認めることのないまま、自分に与えられた権能を正しく行使することをせず、かえって、その権能を放棄し、民衆に渡すのです。

 

聖書は、このイエス・キリストの十字架の死を、冤罪とせず、神の御心の実現とし、刑罰としての死においては、不条理であるのに、神の義においては、罪のない神の小羊であるお方が、十字架の上にご自身をささげられた、唯一の完全な犠牲となられたことを証ししています。

 

   じつに、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださ」(ガラテヤの信徒への手紙313節)ったのです。

 

  今日の礼拝も、ただ、この主イエスの贖いのゆえに、信仰によって、神に近づくものとされていることを感謝し、罪の赦しと救いの恵みを告白しましょう。

 

 

 

聖書の言葉

 

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。                                                             ペトロの手紙一22223

 

 

 

わたしたちの祈り

 

天の父なる神よ、あなたの愛する独り子のみ苦しみと十字架の死が、わたしたちの身代わりの死であり、贖いであることを教えてくださり、感謝します。どうか、日毎に、あなたのみ前に、御子の血によって、罪赦され、贖われた者であることを、告白し、あなたの導きと義を求めて祈りつつ、あなたへの賛美と献身において、いよいよ、あなたの栄光をあらわすに足るものとしてください。わたしたちのイエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

2018年2月25日 ウェストミンスター小教理問16

アダムの最初の違反で、全人類が堕落したのですか。
あの契約がアダムと結ばれたのは、彼自身のためだけでなく、子孫のためでもありました。それで、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです。

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(ローマの信徒への手紙1章3節)お方です。
 ですから、教理問答では、「普通の生まれかたでアダムから出る全人類」と言い、御子、イエス・キリストを除く、全人類について教えています。
 じつに、「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ7章26節)であり、「この方は罪を犯したことがなかった」(ペトロの手紙一2章22節)と証しされるお方こそ、イエス・キリストであり、わたしたちは、この罪のない唯一のお方をとおして、「一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」(ローマの信徒への手紙5章12節)全人類の堕落を認めるのです。
 そして、感謝すべきことに、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる」(コリントの信徒への手紙一15章22節)という、驚くべき福音が、今、わたしたちに示されています。
 今、わたしたちが「先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血による」(ペトロの手紙一1章18,19節)のです。
 このキリストの尊い血こそ、全人類の堕落ゆえの悲惨と死からの救いを、信じる者すべてに永遠の命を約束する、唯一の完全な贖い・犠牲(いけにえ)です。今日も、主キリストのもとに来て、祈りと賛美、告白をささげましょう。

 聖書の言葉
 罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。                      詩編65編4節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、アダムにおいて堕落した全人類の一人として、わたしたちは、日毎に、あなたの御前に数々の罪を増し加えています。ただ、御子イエス・キリストの贖いを信じ、罪赦された者として、あなたの大いなる憐れみによって、罪から救われ、あなたの定められた命の道を共に歩ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年2月18日 ウェストミンスター小教理問15

私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、何でしたか。
私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、彼らが禁断の木の実を食べたことでした。

 主なる神が、私たちの最初の先祖たち、アダムとエバに、禁断の木を園の中央に置かれた理由は、その木の実の性質の良し悪しにあったのではなく、禁止それ自体が、神への従順へのテストであったことに重きがあります。
 しかも、この罪は、他の罪と異なり、全人類の代表であった、最初の先祖たちにおいて犯された最初の罪という点で重大でした。それは、神が禁じられた木の実を食べるという、神の命令に対する反抗であり、悪魔の誘いに乗るという、二重の罪を含んでいます。
 また、その罪は、神のようになるという野心を高めるばかりでなく、エデンの園にあふれている他の木の実を勤労の祝福として食べるという感謝を損ないます。さらには、神の命令に対する不従順は、死と滅びへの恐れを欠き、悪魔の誘いを受け入れることにおいて、神の与えられた命を喜び、永遠に生きることよりも、死と永遠の滅びを選ぶ、本末転倒な選択です。
 この罪によって、永遠の滅びとしての死が全人類にもたらされることにおいて、人間は、生まれながら、神に背き、神を憎みがちな性向、貪欲と偶像礼拝において、その本性を露わにする、悲惨を身に負うものとなりました。
 しかし、感謝すべきことに、神は、わたしたちを愛してくださり、御子の命をもって、わたしたちの贖いの命をお与えにくださいました。第二のアダムとして、聖霊によって、罪のない仕方でお生まれになった、イエス・キリストにこそ、最初の先祖たち、アダムとエバの罪の重みを知る秘訣があります。
 わたしたちの命の源であり、創造主にして、救い主でいます、まことの神、復活の主、キリストのもとに立ち帰る道こそ、贖われた者たちの歩むべき、神の栄光をあらわす、ただ一つの道です。

 聖書の言葉
 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。                   詩編42編3節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの命を、わたしたちの贖いの命としてくだり、あなたの大いなる愛と恵みを覚え、感謝いたします。どうか、日々、あなたに与えられた命と救いの恵みよって、ただキリストを道、真理、命として歩ませてください。心の深みまで新しくされ、いよいよ、主の命を喜ぶ者としてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年2月11日 ウェストミンスター小教理問14

罪とは何ですか。
罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは神の律法に背くことです。

 「罪」とは、もともと、まと外れ、道をはずれた、という意味があります。つまり、神の造られた人間の歩みのすべてが、的をはずれていないか、道をはずれていないか、と、聖書は、アダムにおいて堕落した、全人類の一人である、わたしたち一人一人に問いかけています。
 イエス・キリストは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書5章17節)と言われ、使徒パウロも、「キリストは律法の目標(終わり)であります。信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマの信徒への手紙10章4節)と言いました。
 それは、十字架の死と復活において、イエス・キリストが完成された律法こそ、罪のまったくない、完全な義であることを示しています。
 キリストの光に照らして、罪とは何か、と言いかえてみれば、こうなるでしょう。「キリストが完成された義に少しでも欠けること、あるいはキリストの義に背くことです。」と。
 男山教会では、主日公同礼拝の度毎に、十戒を唱和し、「主よ、わたしたちをあわれみ、この戒めを守る心をお与えください」と祈りを共にささげています。
 そこで覚えられるべきは、わたしたちにとって出エジプトとは、イエス・キリストの贖いによる罪の赦し(本当の救い)であり、あわれみとは、十字架の上に示された、神の愛であり、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(ローマの信徒への手紙9章15節)と言われる、神の主権的選びと召しです。
 今日も、神の律法に、ただ神の愛と憐れみによって、心から従いましょう。

 聖書の言葉
 愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです。
                 ローマの信徒への手紙一10章10節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架と復活において、わたしたちの罪を贖い、新しい命と救いの道を開いてくださり、感謝いたします。どうか、日々、あなたの深い同情と慰めと憐れみによって、御子イエス・キリストに似る者とされて、聖霊の導きの内に、あなたの愛と真実に生きることができますように。“主”イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年2月4日 使徒信条

我は・・全能の父なる神を信ず。

 ヨブの友人テマン人エリファズは、「もし、全能者のもとに立ち帰り あなたの天幕から不正を遠ざけるなら あなたは元どおりにしていただける」(ヨブ記22章23節)と言います。それは、神に許容されたとは言え、サタンの手によって、すべての財産と子たちを失い、自身も「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病」(ヨブ記2章7節)をわずらう、ヨブにとって、酷な言葉でもありました。それは、初めから、ヨブが罪を犯したから、臨んだ、災いでなく、いわゆる因果応報の見方とは、全く無縁の事であったからです。
 ですから、「全能の神」に依り頼むとは、災いや病を、すべて人の罪のせいにすることでも、安易に癒しを持ち出すことでもなく、むしろ、わたしたちが、御子イエス・キリストを与えてくださった御父を信じ、御子の贖いの命において、「神の子とする霊を受け」「この霊によって」、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ、祈りへと導かれているのです(ローマの信徒への手紙8章15,16節)。
 それは、試練、苦難、困難の中でも、神を、全能の主と呼ぶことであり、ここに、本当の希望と慰めと癒しがあります。
 預言者イザヤは、「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエル(ヤコブの新しい名)がわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」と告白しました(イザヤ書63章16節)。
 御子イエス・キリストを「わたしたちの贖い主」と知る、わたしたちにとって、失望の中でも、頭を上げて、主を仰ぎ望む、希望を約束する告白です。なぜなら、全能の神は、ご自身の契約と誓約において、偽りのない真実な御方であるからです。
 今日も、将来のすべてを、全能の主「わたしたちの父」でいます、神にのみ、依り頼んで祈りましょう。
 
聖書の言葉
 父よ、わたし(御子)に与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。      ヨハネによる福音書17章24節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、今、あなたを父と呼ぶことができますことを感謝いたします。どうか、神の家族の一員とされた者として、いよいよ、あなたの栄光を現すに足る者として導いてください。わたしたちの“主”イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2017年1月28日 ウェストミンスター小教理問13

私たちの最初の先祖(せんぞ)たちは、創造(そうぞう)された状態(じょうたい)で続きましたか。
自分の意志の自由に任(まか)されていた私たちの最初(さいしょ)の先祖たちは、神に罪を犯すことによって、創造された状態から堕落(だらく)しました。

 人間には、動物と異なり、物事を道徳的に判断する力が与えられています。そこで、肝心なことは、それを何に照らして行うか、ということです。エバは、蛇(サタン)に誘惑された時、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」と答えながら、悪魔の否定的な言葉に従って、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と、神様が言っていないことを付け加えて、御心から逸れ始めました。
 自己肯定感を持ちにくい時代としばしば形容されますが、人間は、堕落以来、自由意志を、物事の判断において、否定的な感覚に従わせることに早くなりました。将来に望みを抱くよりも、失望に早いのが、堕落した人間の特徴と言えるかもしれません。
 本当の自己肯定感は、じつは、自己正当化しやすい自分であることを、神の御前に否定することから始まります。そして、それは、決して、自己努力で与えられるものはなく、神こそ、正しい方であるとの認識から始まるものです。主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコによる福音書8章34節)と命じられました。
 それは、十字架の上で示された、神の愛の大きさを知るとき、聖霊による新しい自由意志に基づく、自己否定であり、神の愛に生きるとき、人間は、「愛されている自分」という自己肯定感を取り戻し始めるのです。なお残る肉の抵抗を覚えながらも、ただ十字架と復活の“主”に捕らえられ、新しい歩みを生き始めましょう。目を覚まして、みことばを求めて祈りましょう。

 聖書の言葉
 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。    コリントの信徒への手紙一10章14、15節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、罪に堕落した全人類の中から、御子イエス・キリストのもとへと、わたしたちを救い出してくださり、感謝します。どうか、日々、自己正当化の罪の誘惑を逃れ、自分の十字架を負う、真の謙そんへと導いてください。唯一の救い“主”イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年1月21日 ウェストミンスター小教理問12

神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理(せつり)の行為(こうい)をとられましたか。
(答え)人を創造された時、神は人に、完全な服従(ふくじゅう)を条件として命(いのち)を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁(せいさい)として禁じられました。

 神は、ご自身の造られたすべての世界を治め、導いておられ、特別に人間には、一つの契約を立ててくださいました。契約は、神と人間との間の約束であり、創造主である神の方から、わたしたち人間のために立てられたものである以上、人間は、それに従うことだけが求められています。
 罪が世に入り、人間は理屈ぽく,無用な言い訳をするのに早くなりました。神の律法に背く、自分の罪を、神の前に恥じるよりも、神にその責任を転嫁する倒錯した在り方を繰り返しています。
 しかし、もともと、神が全人類の代表であるアダムと結ばれた契約は、エデンの契約とも呼ばれるほどに、祝福に満ちたものです。完全な服従という人間の業を条件としていながらも、人間は決して無理な約束を与えられたのではなく、神の祝福を満喫しながら、いつまでも、神を喜ぶ条件を備えられていたのです。
 ですから、この命の契約は、「善悪を知る木の実」という、堕落後の名をもって証しされながらも、アダムにおいては、「悪」を知る余地はまったくない、すべてが良い状態であったのです。アダムに命じられことは、ただ、「幼子のように」(榊原康夫)神の命令に従い続けることだけでした。 
 主なる神は、この神の契約に背くとき、「死」を制裁とされました。これは、神の言葉に従って生きるとき「命」が約束されるのと、正反対の、神の裁きです。主イエス・キリストの従順は、十字架の死をもって、完全なものと示されました。それほどまでに、病み、神に反抗している世です。アダムにおいて罪に堕落した、世のただ中で、ただ一つの十字架を仰ぎましょう。

  聖書の言葉
 キリストは、わたしたちのために呪(のろ)いとなって、わたしたちを律法の呪(のろ)いから贖(あがな)い出してくださいました。
                  ガラテヤの信徒への手紙3章15節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの深い憐れみによって、愛する独り子を、十字架の死において裁き、呪いをなだめてくださたことを、感謝いたします。どうか、日々、十字架の言葉:福音を信じ、あなたの救いと命を喜ぶ者としてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年1月14日 ウェストミンスター小教理問11

神の摂理(せつり)の御業とは、何ですか。
神の摂理(せつり)の御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物(ひぞうぶつ)とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。

 神は、六日の日にわたってなされた、創造の御業を完成され、「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息」(創世記2章2節)なさいました。
 そして、天地万物の完成を、御自身の安息をもってしるしされた後も、絶えず、すべての世界を治め、祝福しておられます。
 この神の絶えざる摂理の御業を覚えるとき、わたしたちは、人生を神の良き備えの中に、すべてをゆだねて祈るように導かれます。
 ハイデルベルク信仰問答は、この神の摂理をどんな時にも、どこにおいても信じることについて、このように教えています。
 神の摂理とは、「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。」(問27)
 さらには、「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については、わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動かされることもできないからです。」(問28))と、神の創造と摂理を信じることによって、神への確かな信頼に導かれることを、告白しています。
 わたしたちも、どのような事情、環境、境遇がありましても、すべてを神の御手にゆだね、日々、創造主である神への信頼を新たにしていきましょう。

  聖書の言葉
 あなた(主なる神)は必ず御覧(ごらん)になって
 御手に労苦と悩みをゆだねる人を
 顧(かえり)みてくださいます。         詩編10編14節
                     
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、今、この時も、あなたの御手の中で、導いてくださり、感謝いたします。御子の贖いのゆえに、あなたの子とされた者として、あなたが万事を益としてくださることを信じ、真の信仰を求めて歩ませてください。主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

2018年1月7日 使徒信条

われは・・・信ず。

 使徒信条は、もとのラテン語の始めの言葉をとって、クレド(the Credo:私は信じます)と呼ばれます。それは、わたしたちに、御言葉とイエス・キリストにおいてご自身を啓示された生けるまことの唯一の神、父と子と聖霊なる、三位一体の神を「信じる」群れとされた事を教えるものです。
 十字架の死から三日目に復活された主イエス・キリストは、十二弟子の中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われ、ご自身を現されました。このとき、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネによる福音書20章19、20節)のでした。
 そして、主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言って、「弟子たちに息を吹き入れて言われました。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音書20章21~23節)と。
 「だれの罪でも・・」とは、わたしたちに託された福音においてのみ、わたしたちは、キリストの権能において、罪を赦すという、神のみに属する召しに応えて生きるのです。それは、復活の日に、弟子たちに、主イエスの命の息が吹き入れられて、十字架の死から復活された、イエスを主キリストを伝える者とされた者たちと同じ喜びをもって、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく・・」と祈る者とされた、という神の御業を示します。
 この意味で、わたしたちにとって、神信仰とは、人の信念の問題ではなく、神の啓示された福音を信じる者とされ、罪赦された者とされる事とひとつです。罪深く、なお。かたくなな者たちに、主イエスは、トマスと同じように、「あなたは見たので信じたのか、見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネによる福音書20章29節)と招き、呼びかけ、命じておられます。

 聖書の言葉
暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。        ヨハネによる福音書12章35,36節
            
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、この年も、わたしたちを、キリストの光のもとへとお招きくださり、感謝します。どうか、わたしたちが、十字架の死から三日目に復活された主イエスの光と命のうちに、主を信じつつ、生きる者としてください。わたしたちの主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年12月31日 ウェストミンスター小教理問10

神は人をどのように創造されましたか。
(答え)神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造し、被造物の支配を託されました。

 創造主なる神は、人間を御自身のかたちに似せてお造りになりました。それは、動物など他の生き物にはない、特別な神のご意志によるものです。
 人間の本質は、全人格的でものであって、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と、神の人間の創造が、命の息(魂と同じ言葉)において、固有の生命をもって活動する者とされました。
 人間が、男性と女性とに造られた時、アダムは、「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と言い、自分の似姿を認めました。それは、当然ながら、人の仮説における進化論とは、全く異なる、「神の真理」における人間の創造の本質と、神の命じられる文化的社会を健全に形成していくための基礎である、結婚の神聖さと意義が、ここに明らかにされています。
 人間がお互いに自分と同じものを認め合うとき、そこには、平和が満ちます。しかしながら、アダムにおいて罪が世に入り、人間が堕落した結果、戦争の不安がやまず、また、貧富格差の著しい社会、罪と腐敗の蔓延する世が、一つの霊的事実です。
 しかしながら、聖書は、御子イエス・キリストの降誕・十字架・復活という福音を伝えます。ここに、すべての人が、救いを必要としていること、神と和解し、交わり、神を大いにほめたたえて生きる道が求められます。御子イエス・キリストの降誕は、じつに、この世のただ中に、聖霊によって、おとめマリヤの胎に宿るという仕方で成し遂げられました。それは、わたしたちと同じ人間性をおとりになるためであり、十字架において「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられ」(コリント第一1章31節)るためでした。

 聖書の言葉
 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
                         イザヤ書38章16節
                       
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちに、永遠を思う心と魂をお与えくださり、感謝いたします。どうか、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、わたしたちを、罪の世から自由とされ、ただ、あなたの栄光をあらわし、喜ぶ、救いの道を歩ませてください。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

20171224日 ウェストミンスター小教理問8

 

 

 

創造の御業とは、何ですか。

 

(答え)創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。

 

 

 

 創造主なる神の御業は、主イエス・キリストの降誕の時、大いにその御力が示されました。野原で夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、御使いたちによって、伝えられ(2章8~12節)、東方の方からエルサレムに来た占星術の学者たちは、「・・わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2章2節)とヘロデ王に言い、御子の生まれた所を探し求めました。それは、大きく光る星(惑星の会合、あるいは、彗星)の光もって、導かれたものです。

 

 御子イエス・キリストが十字架の上で、その霊的かつ身体的苦しみを忍ばれた時には、「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マタイによる福音書27章45節)と書いてあるとおりに、御子の死における神の裁きと絶望的悲惨さとが、日の光が暗くなる仕方で、証しされました。さらに、復活の日は定められとおりに、三日目の朝でした。

 

 主イエス・キリストご自身、十字架の死に引き渡される日が近づく中、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネによる福音書17章5節)と祈り求めました。それは、ご自身が、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイの信徒への手紙1章15~17節)と啓示されているとおりに、永遠の神の独り子でありつつ、罪をほかにして、わたしたちと同じ人間としてお生まれになり、十字架の死に至る、受難の道を歩まれたことを物語るものです。

 

 「光あれ」と言われ、光が創造された第一日、と御子の復活された日と聖霊降臨の日の御業を覚えて、一週の初めの日に礼拝を守っています。絶えず、聖霊に導かれつつ、一週の初めの日の「主日」礼拝を、共々ささげましょう。

 

 

 

 聖書の言葉

 

六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 

                        出エジプト記2011

 

                       

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、御子の降誕の内にも、あなたの大いなる創造と救いの御業があらわれていることを感謝いたします。どうか、わたしたちが、いつも、御子の内に、あなたの御心と救いの御業を見て、霊的安息の中を、共に、歩ませてください。主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

2017年12月17日 ウェストミンスター小教理問8

神はその聖定を、どのように実行されますか。
(答え)神が聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。

 天地を造られた全能の神は、「わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り わたしの望むことをすべて実行する」(イザヤ書46章10節)と約束されます。
 わたしたちが、神の聖定が、創造と摂理の御業において実行されていることを信じるとき、わたしたちのささげる祈りは、自分の思いどおりになることよりも、神の御心が実現することを求めるように変えられます。
 このことは、わたしたちが自分の意志や、願望を持たなくなるということではなく、むしろ、自分の意志や願望を根底から支えるものが、人間から、創造主なる神に変わること、神の恵みによって、わたしたちの願いが清められることを願うことを意味します。
 使徒パウロは、フィリピ教会の聖徒たちに、「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリピの信徒への手紙2章12節)と命じ、その根拠を「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(同13節)と伝えました。
 それは、神が、わたしたちの内に、御心に適う願いを起こしてくださるばかりでなく、それを成し遂げる力をも与えてくださること、さらには、御子の贖いの祝福をもって、わたしたちの救いの完成へと導かれることを証ししています。この真実は、絶えざる祈りを必要とその源を、明らかにするものです。 
 主イエス・キリストは十字架に引き渡される時、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22章42節)と祈りました。それは、「主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。」(詩編22編20節)の御言葉の実現でした。わたしたちも、罪の負い目を、ただ御子に負う者として、神の備えられた恵みと御力を信じ、絶えず、祈りましょう。

 聖書の言葉
 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。  ヤコブの手紙3章17節
                       
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子において、御心を求めて祈ることを教えてくださり感謝します。どうか、御子の内に、あなたの御心が実現したことを信じ、あなたの御業によって、わたしたちの救いの完成に向かって、従順に歩ませてください。主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

2017年12月10日 ウェストミンスター小教理問7

神の聖定とは何ですか。
神の聖定とは、神のご意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。  

 主イエス・キリストの降誕・受難・復活・昇天は、あらかじめ神が定めておられた、救いのご計画の実現の中で起こった、恵みの事実です。
 聖霊降臨の後、キリストの召しに従った、使徒パウロは、ギリシャ首都アテネのアレオパゴス(会議場)で、「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。」(使徒言行録17章28節)と言い、ギリシャの詩人の言葉を引用しながら、生ける真の唯一の神を、経験的信仰から弁明しようとしました。
 しかしそこで、人々のつまずきとなったのは、死者の復活の教えです。イエス・キリストは、十字架の死に至る道において、神の栄光をあらわされただけではなく、死者の中から三日目に復活され、天に上げられました。
 わたしたちが、神の聖定を、神のご意志の熟慮による永遠の決意として信じるとは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」(エフェソの信徒への手紙1章4,5節)、神の定め(聖定)を信じることです。
 それは、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネによる福音書10章18節)と言われるとおりに、御子の十字架と復活を、神の定めと信じる時、わたしたちの信仰を支え、確固たるものとします。
 世の中の運命論や、宿命論から、神を喜び、ほめたたえる信仰が生じようがないのは、当然です。しかし、この神の永遠の定めを、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストを通して信じる時、わたしたちの心と魂は、尽きることのない、神賛美に導かれます。ここに、神の栄光があります。

 聖書の言葉
 主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。                   詩編18編46節 口語訳
                       
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子を、わたしたちのためにお与えくださり、感謝します。どうか、御子の命の内に、罪人の赦しと永遠のいのちがあることを信じ、あなたの永遠の定めを、わたしたちの救いのよりどころして信じさせてください。主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年12月3日 使徒信条

主は・・・葬られ、陰府にくだり、・・

 主イエス・キリストは、わたしたち一人一人と同じように、ただ一回のかけがえのない命を、十字架の死にささげてくださいました。しかしながら、他の全人類の死と異なり、その死は、罪のない御方の死であり、また、永遠の神の独り子である御方の死でした。この意味で、まったく独特無比の御方の特定の、一回限りの、十字架の死に至るご生涯であったことを、よく覚えることが大切です。
 「処女マリヤによって受胎され皇帝アウグストのころにベツレヘムでクリスマスに生まれたのは、まったく特定の一回的な命である。それは、自分自身を死に渡すことによって――しかも十字架において初めてというのではなく彼がこの死のからだに入って来られた、すでにあのときに、死に渡すことによって、すべての人間のすべての命を死から救う、唯一の命」(リュティ)であったのです。
 主イエス・キリストが十字架の死に引き渡され、墓に葬られたことにおいて、本当に死なれたことを証しされました。そして、「罪のためにただ一度苦しまれ・・正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」ことを知るとき、わたしたちは、それが、わたしたちを「神のもとへ導くため」であることを告白するのです(ペトロの手紙一3章18節)
 そして、イエス・キリストは、「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされ」「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(同3章18,19節)
 このように、イエス・キリストは、陰府に降られたときにも、死に支配されることなく、霊において、その命の支配を滅びの定められた人々に示されました。滅びの中から、永遠の命へと定められた人々は、主イエス・キリストを、わたしの救い主と信じ、「神に正しい良心を願い求め」(同3章22節)る祈りに導かれ、キリストの支配に服し、生涯を歩むように導かれるのです。

 聖書の言葉
 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを
 を照らし出す。」              詩編139編11節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの愛する独り子イエス・キリストは、十字架の死と葬りの時にも、ご自身の命を支配を暗い陰府に現してくださいました。それは、ただの人間にはなしえない、永遠の神の御子の御力によるものです。どうか、どのような暗い日にも、この主イエスの御支配を信じ、御言葉を求め祈る力を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2017年11月26日 ウェストミンスター小教理問6

その神には、いくつの位格がありますか。
神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。

 主イエス・キリストが、「洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカによる福音書3章21、22節)のでした。
 また、「すべての民をわたしの弟子とするように」命じられ、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあながたがと共にいる」(マタイによる福音書28章19,20節)と約束されました。
 ただお一人の、生きた、まことの神には、「三つの位格(ペルソナ)」があるとは、聖書の啓示のみにとどまり、三つの固有の人格を神がお持ちでありながら、その「実体は同じで力と栄光において等しいひとりの神である」ことを信じることです。
 キリスト教会の歴史の中で、使徒信条が定められた後、ニケア信条(325年)において、「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリヤより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。」とキリストの神性についての告白をより明確にしました。イエスを主と告白し、父、子、聖霊なる神:三位一体の神のみを礼拝しましょう。
 
 聖書の言葉
 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。                コロサイの信徒への手紙1章15節
                       
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、聖書において、唯一、真の生ける神は、父、子、聖霊なる神という実体が同じで力と栄光において等しい三位一体の神であることを啓示してくださり、感謝します。ただこの神のみを真心から礼拝する者とならせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

11月26日から新しく掲載いたします。