2018年10月14日 ウェストミンスター小教理問41

道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。
道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。

 「十戒は、シナイ山で神の声によって交付され、神によって二枚の石の板に書き記されて、出エジプト記20章に記録されています。初めの四つの戒めは、神に対する私たちの義務を、続く六つの戒めは、人に対する私たちの義務を、その内容としています。」(ウェストミンスター大教理問答問98)
 この出エジプト記20章に記録されている十戒は、申命(主の命令を再び告げるの意味)記5章において、再び、記録されています。そこでは、モーセが、全イスラエルを呼び集めてこう言いいました。
 「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。主は言われた。」
(申命記5章1~5節)と言い、シナイ契約において、主なる神が言われた言葉として、十戒(十の言葉)告げられます。
 そして、そこで思い起こされることは、出エジプト記においては、天地創造の御業と七日目の安息でしたが、申命記においては、それを土台として、出エジプトの御業が加えられます。
 つまり、十戒における礼拝の日であり、時である、安息日とは、神の御業を思い起こすために、命じられているものなのです。
 今、わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活、聖霊降臨の御業を思い起こしつつ、主日礼拝を守っています。道徳律法における愛の初め、善悪の初めに、十字架の上に示された神の愛があることを、まず覚えましょう。

 聖書の言葉
 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
                      ヨハネの手紙一4章9節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪の身代わりの犠牲としてくださり、感謝いたします。どうか、十戒の中に要約的に示されているあなたの掟を守るために、第一に、あなたの愛を深く心に留めることができますように。そして、ただ、あなたの栄光をあらわし、神礼拝と隣人愛に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年10月7日 使徒信条

我は・・聖なる公同の教会・・を信ず、

 わたしたちの主イエス・キリストは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)また、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)と言われました。
 それは、キリストの教会とは、はじめから、主イエス・キリスト御自身が建てられるものであって、教会は、その体制・本質において、維持・運営されるものではなく、むしろ、健全かつ霊的に、建設・成長するもの、神の恵みによって豊かな祝福の実を結ぶものであることを意味しています。
 それでは、この教会建設の土台、成長の地盤は、何でしょうか。それは、「この岩」という、神の啓示であり、キリストを証しする聖書の言葉であり、キリストを主と告白する信仰告白であり、それを宣べ伝える使徒的つとめです。
 ですから、主イエス・キリストは、この大切な約束を、使徒としての召命を与え、みずから、ペトロという名を付けられた弟子の一人の名をもって、わかりやすく、教会の唯一の土台をここに明らかにしてくださったのです。
 カトリック教会では、これを、ペトロ自身と解釈し、ペトロの首位性と使徒伝承を重んじ、“教会の外に救いはない”と、教会の権威を主張します。しかし、わたしたちプロテスタント教会は、権威の土台は、教会に帰属するものではなく、あくまでも、聖書のみであり、それは、キリストのみによる救いに至る道、そのものであると、聖書信仰そのものを教会理解として告白します。
 教会(エクレシア)とは、はじめから、神自ら召し出された群れという意味を持っています。「主イエス・キリストが、御自身の民を集め、これを全うするために、この地上に建てられた公同の教会は、見える恩寵の王国であり、いつの時代にも同一である」(日本キリスト改革派教会政治規準第二条:教会)ことを信じるとき、主に贖われた群れの一人であることを自覚するのです。
 
 聖書の言葉
 こうして、わたしたちは、…愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。エフェソの信徒への手紙4章15節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、御子イエス・キリストの召し集めれた群れとしてくださり、感謝いたします。どうか、あなたの愛に根ざして福音の真理を人々に告げ、また、主イエスが、わたしたちを愛してくださったように、互いに愛し合いつつ、あなたのこの上ない愛を表す者としてください。わたしたちの主、教会の頭、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月30日 ウェストミンスター小教理問40

神は、人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。

 世の多くの人々は、宗教と言えば、何らかの特定の規則に従う規律を課することを第一とすること思っているかもしれません。事実、多くの宗教は、自分を律する苦行を課し、また、様々な根本的な教え(たとえ、それが、神ではないものを神とする偶像であったとしても)をもとにしています。
 ですから、とりわけ、聖書信仰(キリスト教有神論)における、道徳律法の理解において大切な事は、創造主でいます、神御自身が、人間の服従のために初めから、一つのルール(原理・規則・規準)を示されたという事実です。
 それは、人間の心からの服従を求めるものです。しかし、初めに、業の契約において、始祖アダムは、神の啓示されたルールに背き、罪が世に入りました。
 しかし、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマの信徒への手紙2章14,15節)と教えられるとおりに、聖書も知らず、十戒を知らない者でも、その心に、道徳律法が書き記されているので、その良心的働きにおいて、人間は、物事の善悪を判断をしながら、神の与えられた道徳律(良心的規律)を基とする生活をしています。
 堕落と罪のために、かえって、その思いは暗くなり、また、善を知りながら、悪をなしてしまう、肉の弱さと痛みを身に負い、争いと悲惨を繰り返しながらも、道徳的社会が破綻していない理由は、ただ、神の憐れみによります。
 今、わたしたちは、「律法の目標(終わり)」(ローマの信徒への手紙10章4節)となられた、十字架の主、キリストの心をわたしの心とする道を与えられました。それは、神の完全な愛に適う道そのものであり、聖霊の賜物です。

 聖書の言葉
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
                コリントの信徒への手紙二2章16節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストが、律法の終わりとなってくださり、あなたの義を完全に満たしてくださったことを感謝いたします。どうか、あなたの契約と律法において、わたしたちが、いよいよ、聖霊の恵みによって、日々、あなたの示された道徳律法のすべてに聞き従うことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年9月23日 ウェストミンスター小教理問39

神が人に求めておられる義務は、何ですか。
神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。

 わたしたちは、数多くの規則、きまりの中で、ある秩序を重んじる生活しています。それらに慣例的に、あるいは、とくに、自分の意志に反して強制的に従うことは、ここで教えられている「神の啓示された御意志への服従」とは、その根本的原則・領域・方向が異なります。 
 「神の啓示された御意志」とは、具体的には、旧新両約聖書66巻のことを指しています。そして、そこで、神が啓示された御意志は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4節)と命じられているように、求められていることは、わたしたちの「心」「魂」「力」を尽くすことであり、神である主を「愛する」という、霊的で、一途なものです。
 しかし、そこには、始祖アダムにおいて堕落した人間においては、罪ゆえの心の覆いが除かれることが不可欠であり、かたくなな思いが、柔和な思いに変えられなければなりません。それは、ただ、聖霊の働きによることです。
 主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネによる福音書5章25節)と言われました。また、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネによる福音書18章37節)とも言われ、神の子の声、キリストの御声を聞く者こそ、聖書の言葉を、本当に心から従うべき信仰原理のみならず、生活原理であり、正しい規準そのもの、まさに真理であると信じて生きる者であることを明らかにしてくださいました。
 聖霊の恵みによる信仰の従順と良心的平和を求めつつ、人生の原理・規準・義務を、御子を証する聖書に求めつつ、真心から、主にのみ服従しましょう。

 聖書の言葉
…永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。ヘブライ人への手紙9章14節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の受肉と十字架の死と復活において、あなたの真実と愛を示してくださり、感謝いたします。どうか、聖書の御言葉を真実に開いてくださる御子の命をわたしたちの救いの命としてくださり、あなたが、わたしたちに命じておられる霊的義務を心を尽くして守り、あなたを愛する者としてください。愛する主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月16日 ウェストミンスター小教理問38

信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか
信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。

 わたしたち人間は、始祖アダムおいて罪に堕落し、神の御前に、永遠の死という罪の刑罰としての死を負う者となりました。聖書は、霊魂不滅説のように、漠然と生きることを救いのように教えているのでなく、むしろ、神の永遠の裁きを、御子イエス・キリストが十字架の死において身代わりに負ってくださったゆえに、信じる者たちが、三日目に復活され、天に上げられた、キリスト共に生きることこそ、救いの道、永遠の命、と教えています。
 このように、キリストを主と告白する信者たちが、「復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され」る
ことは、ほんとうに、キリストと結び合わされた者たちが、享受する、神とキリストから与えられた恵みであることを、心から感謝して告白することです。
 さらに、わたしたちが、キリストにおいて、罪贖われた者とされる目的は、神を礼拝することです。それは、「永遠に全く神を喜ぶ」という神の与えてくださる恵みを感謝し、その救いの恵みと賜物を受け入れ、神をほめたたえることです。
 「審判の日」は、滅びに定められた者と救いに定められた者が明らかになる日ではありますが、聖書の力点は、あくまでも、滅んで当然であった者が、キリストのゆえに、救われ、永遠に神を賛美することに定められることにあります。両者は、けっして、同じ度合いで物語られていないのです。
 今日、わたしたちは、「キリストの日」を共に待ち望みつつ、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピの信徒への手紙3章21節)ことを、ほんとうに信じます。この信仰にこそ、神の恵みと力が現れています。
 
 聖書の言葉
死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みか(完全な復活体)を上に着たいからです。コリントの信徒への手紙二5章4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の十字架の死からの復活の御業において、今、御子を信じる者たちを、死から命へと、日々、新しくされていることを感謝いたします。どうか、あなたの与えてくださる新しい体を着る日まで、なお罪のゆえにうめきつつ、すでに死に勝って余りあることを、ほんとうに信じて、主と共に歩ませてください。主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月9日 ウェストミンスター小教理問37

信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。

 ウェストミンスター小教理問答は、その第一問において、人生の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと[字義的には「享受すること」、つまり、神からあたえられた賜物をそのままに喜ぶ、霊的自由]と教えています。
 わたしたちが、ほんとうに、神の恵みを確かに受けた者として感謝を告白し、また、これから受けるものを信じて、望みをいだくことであり、そのすべてが、神を、どんな時にも、喜び、感謝し、祈る、霊的な生活そのものです。
 イエス・キリストが、神の御前に、身代わりの刑罰としての死を負ってくださったと信じる者にとって、もはや、刑罰としての死は、存在しません。なぜなら、神は、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、ご自身の選びの民を死に断罪する根拠をもはや持っていないからです。
 「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光には入る」とは、十字架の死から三日目に復活され、天にあげられたキリストの内に「入る」ことを意味します。わたしたちが、地上の生涯において、このことを「信じる」とき、迫害の中で、ステファノが、イエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えると言って、主のもとに召されたように、わたしたちも、イエス・キリストに、生かされている存在であることを受け入れるように変えられます。
 それは、ただ、聖書が教えていることをそのままに受け入れるだけでなく、イエス・キリスト御自身への信頼を深くしていく道です。
 「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休む」とは、復活の日を待つ「永遠の休息、眠り」のことを意味します。
 そうです。わたしたちは、この卑しい体が変えられて、キリストの栄光に似る新しい体において復活するのです。今、このことを信じるとき、肉体の弱さを覚え、死を恐れる時にも、復活のキリストを喜び、その日を待つのです。
 
 聖書の言葉
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
                  マルコによる福音書15章39節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの身代わりの命としてくださり、十字架の上で、あなたの怒りと呪いという永遠の裁きを引き受けてくださったことを、深い畏れをもって信じます。どうか、日毎に、キリストにおいて、あなたからの恵みと平安の中に、憩い、復活の日をほんとうに信じて歩ませてください。イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月2日 使徒信条

我は、・・罪の赦し、・・を信ず、

 「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」(イザヤ64章6節)と、主なる神の御前にあるイスラエルの民の罪を預言者イザヤは、告白しました。
 それは、主の御名を知りながら、礼拝せず、御力を求めず、そのゆえに、神と礼拝生活から遠ざかっている、人びとの「罪」の有様を物語っています。
 「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザヤ書33章22節)と告げるように、罪を正しく裁かれる方は、神のみであり、その唯一の基準は、神の法(律法)です。この神の裁きを御子が身代わりとなって負ってくださったのです。
 使徒パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章24節)と、「わたしの内に住んでいる罪」(7章17節)を自覚し、救いを求めて叫び、罪贖われた者として、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」(7章25節)という良心的矛盾をはらむ人間性を告白します。
 今、わたしたちが、主イエス・キリストに命じられたとおりに、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、パウロ同様に、聖霊に導かれながらも、なお残る内なる罪を自覚しつつ(罪人)、キリストにおいて罪赦された者として、わたしたちに対して罪を犯す者たちのために執り成して祈る者(義人)とされたことを日々告白します。
 それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章12節)と主イエスの掟に適うことでもあります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章21節)との御言葉に聞き従って歩みましょう。
 
 聖書の言葉
 しかし、赦しはあなたのものにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。
                         詩編130編4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの義と聖と贖いとしてくださり、心から感謝いたします。どうか、今、あなたの深い憐れみによって、罪赦され、あなたを畏れ敬い、礼拝することへと導かれたことを感謝し、主が与えてくださった兄弟姉妹と人々のために執り成して祈る者としてください。わたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月26日 ウェストミンスター小教理問36

この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。

 主イエス・キリストの十字架の血によって、贖われ、神の子とされた者たちは、「万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。」(詩編84編2節)との告白に連なる群れの一人とされた者です。
 それは、時には、「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(詩編13編2節)と思う時にも、変わることない、神の不変の愛です。
 そして、わたしたちを贖い、神に近づく生きた道を開かれたイエス・キリストが、「神の家を支配する偉大な祭司」であることを信じ、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこう」(ヘブライ人への手紙10章21,22節)と招かれ、奨励されています。
 さらに、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ人への手紙10章36節)と命じられています。
 このように、わたしたちがささげる礼拝こそ、イエス・キリストの贖いの目的である、神に近づく最高の機会です。そして、神と共に生きる道を備えられた者たちは、決して、自分に与えられた確信を捨てることなく、忍耐しつつ、主イエスの再び来られる日を待ち望むのです。
 この「確信」も「忍耐」も、人の信念や我慢ではなく、キリストの恵みであり、聖霊の賜物です。ですから、どのような時にも、失望落胆することなく、
主とその恵みの御言葉によって、日々、内なる霊において新たに歩みましょう。
 
 聖書の言葉
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
                   ローマの信徒への手紙5章5節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪のために唯一完全な身代わりの犠牲(いけにえ)としてくださり、感謝いたします。わたしたちが、キリストの血によって贖われた者として、いよいよ、あなたの栄光をあらわすにふさわしい者として、内なる思いを清められ、主を喜ぶ礼拝へと絶えず導いてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月19日 ウェストミンスター小教理問35

聖化とは、何ですか。
聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。

 神に造られながら、始祖アダムにおいて、罪に堕落した人間が、神の栄光をあらわすために、創造の目的にかなって、本来の人間らしさを取り戻すために不可欠なことは、第一に、その罪が赦され、神の子とされること(義認と子とされること(養子))、第二に、罪赦され、神の子とされた者として、その身分にふさわしい状態に造り変えられることです。
 「聖化」の御業は、御子イエス・キリストの唯一にして完全な、贖いの犠牲ゆえに、神のものとして聖別された者が、ただ、神の無償の恵みによって、聖霊によって、キリストに似た者に変えられていく道のりの全体に及びます。
 「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイの信徒への手紙3章9,10節 口語訳)と教えられているとおりに、キリスト・イエスの内に、聖霊の恵みによって、日々、わたしたちは、造り主である神のかたちに従って、その霊と心と考え、人格と全身のすべてを、新しくされつつ、地上の生涯において、完成に向けて歩んでいきます。
 それは、聖霊の恵みによる(受け身)でありながら、同時に、自分自身の知性と感情と意志を新しくされる(主体的)な行動を、わたしたちの内にもたらす仕方で明らかにされるものです。
 そして、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5章17節)と、主イエス・キリストが、十字架とその道において、ご自身の約束を成し遂げてくださったとおりに、わたしたちも、自分を捨て、自分の十字架を負いつつ、聖霊の御力によって、信仰と従順の道を共にしていくのです。

 聖書の言葉
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                   ローマの信徒への手紙6章22節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストにおいて約束してくださいました、聖霊をお与えくださり、わたしたちを、義と認め、神の子としてくださったばかりでなく、救いの命と聖なる生活に導いてくださっていることを感謝します。どうか、あなたの御言葉と聖霊によって、日々、霊肉に共、新しくされますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月12日 ウェストミンスター小教理問34

子とされることとは何ですか。
子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つものになるのです。

 「子とされること」と言う言葉は、もともと「養子とされること(adoption)
」と訳される言葉で、血縁関係でなく、法的関係において、子とされることを意味します。
 つまり、神と人間はもともと創造主と被造物の関係でありながら、ただ、神の恵みによって、神を父と呼ぶ子としての間柄を与えられるという事です。
 新約聖書の冒頭に、「アブラハム子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章1節)とあるように、もう一つの驚くべき関係は、永遠の神の御子である御方が、人の子としての御名をお持ちになったという事実です。
 そして、わたしたちが、神の子とされるためにこそ、御子イエス・キリストは、人の子として、その肉においては、罪をほかにしては、わたしたちと同じように、ヨセフの子として、契約の子の代表としてお生まれになりました。
 今、わたしたちは、「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤの信徒への手紙4章6節)と証言されているとおりに、御子の霊、聖霊が、神を父と呼び求める霊を、わたしたちの心に送られている恵みの事実を認めることができます。なんと、感謝なことでしょうか。
 「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)と言われるとおりに、贖い主である神、キリストが、ご自身の贖われた民、一人一人の名を呼ばれていることに応えつつ、救いの命を子としてあらわして歩みましょう。
  
 聖書の言葉
 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
                    ヘブライ人への手紙3章6節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの命を、わたしたちの身代わりの命としてお与えくださり、感謝します。今、あなたの子とされ、キリストの治めておられる神の家族の一人とされた者として、いよいよ、あなたを「父」と呼び求めつつ、あなたの御心に適う歩みの中に、わたしたち一人一人を導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月5日 使徒信条

 主は・・三日目に死人のうちよりよみがえり、・・。

 主イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活されたことを信じるとき、わたしたちは、弟子たちと同じように、復活の主がいつも共におられることを信じて歩むように変えられます。それは、主イエス・キリストが、今、ここで、復活の後、天に昇られた御方が、霊において、生きて働いておられる、まことの神であることを物語っています。
 使徒ペトロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と賛美し、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産(=神と共に歩むという希望、神が御自身の民のために確かに保持してくださる契約的祝福)を受け継ぐ者としてくださいました」と言いました。
 それは、主イエス・キリストの復活が、わたしたちにとって、この地上の生涯を歩む、忍耐と希望の源であることを証しするものです。
 そして、イエス・キリストが再び来られるとき、皆、「朽ちるもの」(死ぬべき、はかないもの)であっても、「朽ちないものに復活する」約束をいただいています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(コリントの信徒への手紙一15章56節)と叫ばれるほどに、神の律法は、わたしたちの罪を明らかにして責め立て、また、罪の結果としての死を指し示します。しかし、主の再び来られる日には、「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15章52、53節)との御言葉が実現するのです。
 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」し、「主の業に常に励み」ましょう(15章57、58節)。

  聖書の言葉 
 兄弟たちは、小羊(イエス・キリスト)の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
                    ヨハネの黙示録12章11節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子が、わたしたちのすべての罪と滅びの死を負ってくださり、十字架の死から三日目に復活されたことを信じ、御名をほめたたえます。どうか、罪の責め苦や、死への恐れを感じるときにも、主が最も近い御方であること信じ、絶えず、忍耐と希望をもって、歩ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年7月29日 ウェストミンスター小教理問33

義認とは何ですか。
義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受け入れてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。

 義認とは、無罪宣告です。それは、神の無条件の恵みによる一回的決定であり、神の働きによるものであって、人間の側には、一点もその功績の余地は残されていません。
 なぜなら、人間は生まれながら、アダムの堕落において、皆、原罪を負っており、その本性において、神に敵対する罪を負い、神の御前に最も善いことであっても、なお罪汚れている者であるからです。
 このように、罪は、外面的なものでなく、一時的なものでもなく、心と言葉と行いのすべてにおいて、全面的に神と隣人を愛することに適うためには、皆、聖霊の独占的で主権的な支配によるしかないのです。
 聖霊は、イエス・キリストが、ただ一度、十字架の上で成し遂げられた、完全な贖いを、わたしたちに有効に適用してくださり、信じる者すべてに、キリストの義を転嫁してくださいます。そして、「私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しい(罪赦された者)と受け入れて」くださるのです。なんと、驚くべき、神の憐れみでしょうか。
 アブラハムが、妻のサラ共々老齢になり、人の目には子宿すことができないことを知りながらも、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在される神」を信じ、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信し」「それが(神によって)彼の義と認められた」と、使徒パウロ言い、(ローマの信徒への手紙4章17、21、23節)ます。
 そして、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められ」(ローマの信徒への手紙4章24節)るのです。
このただ一度の、神による義認こそ、神との和解であり、神の救いです。  

 聖書の言葉
 いかに幸いなことでしょう。主に咎(とが)を数えられず、心に欺(あざむ)きのない人は。                    詩編32編2節
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストが、十字架の死と復活において成し遂げられた、唯一の贖いの犠牲のゆえに、信じる者を罪赦された者とし、あなたの恵みの契約とその祝福を受け継ぐ者としてくださり、感謝します。どうか、神の御力を信じ、信仰によって生きることができますように、助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月22日 ウェストミンスター小教理問32

有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。
有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。

 聖霊なる神の御業によって、御言葉の力のとおりに、わたしたちが、心を開かれ、自分の罪と悲惨とを自覚し、キリストを知るように心を照らされ、その意志をも新しくされるとき、十字架につけられ三日目に復活されたイエスこそ、神が約束されたキリスト、救い主であると、御子に関する、神の福音(よきおとずれ、良き知らせ、勝利宣言)を信じるように、有効に導かれます。
 そればかりでなく、この聖霊の御業によって救いに対して有効に召し出された者たちには、この世で、「義認、子とされること、聖化」と、「それらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます」。
 イエス・キリストは、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)と約束してくださいました。
 聖霊なる神の恵みが、イエス・キリストの福音を通して注がれるとき、その恵みにあずかる者たちの内から、救いの恵みとその祝福の豊かさが分かち合われることを意味しています。
 主イエス・キリストの福音は、罪人を救うだけではなく、救われた者たちを、ただキリストの贖いのゆえに、罪赦された者、義人と認めてくださり、神の子として愛ししてくださり、永遠の御国を受け継ぐ者としてくださいます。そして、主の霊によって、「わたしたちは皆、顔(もしくは心)の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。」(コリントの信徒への手紙二3章18節)
 今日も、主イエス・キリストの霊(聖霊)に導かれつつ、主の御業において、主の御心を求めて祈る者とされた祝福を共にし、御名をほめたたえましょう。 

 聖書の言葉
 救いは主にあります。あなたの民に あなたの祝福がありますように。                         
             詩篇3編8節 新改訳[3編9節:新共同訳]
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの十字架上で成し遂げられた贖いの御業において、今、わたしたちを聖霊の恵みによって、そのすべての祝福にあずからせてくださり、感謝いたします。どうか、心の罪が打ち砕かれ、全能の神の御力と、御子の復活の命を信じ、聖霊の喜びに生かしてください。教会の頭、主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月15日 ウェストミンスター小教理問31

有効召命とは、何ですか。
有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。

 主イエス・キリストは、種まきのたとえ話において、同じ御言葉の種が蒔かれても、道ばたに落ちて鳥が食べてしまったり、石だらけで土の少ない所に落ちて枯れてしまったり、茨の間に落ちてふさがれてしまったりすることがあることを教えてくださいました。良い土地に落ち、実を結ぶことができるのが、この教理問答の教える、「有効召命」であり、聖霊による救いの御業です。
 聖霊なる神(御霊)は、第一に、わたしたちに、聖なる神の御前に、罪ある者であることを自覚させてくださり、その罪を神が悲しまれているように、悲しむ感情を起こしてくださいます。第二に、わたしたちの心を、御言葉によって、照らしてくださり、キリストを知るように導き、わたしたちの意志を新たにしてくださいます。そして、第三に、キリストの十字架と復活において示された神の福音(良き知らせ、勝利宣言)を受け入れさせてくださり、イエスこそ、神の約束のキリスト、救い主であることを告白させてくださるのです。
 使徒パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソの信徒への手紙5章8、10、15、17節)と命じます。
 それは、キリストの救いに導き入れられながら、なお残る罪と闇につく思いとの戦いの中で、十字架の死から三日目に復活されたイエス・キリストが、わたしたちを照らしておられることを信じつつ、命じられる、聖潔の道です。
 主の霊に導かれつつ、キリストの命を喜ぶ道を共に歩んでいきましょう。

 聖書の言葉
 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。    エフェソの信徒への手紙4章30節  
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音」(エフェソ1章13節)を聞くために、聖霊の御業を有効に働かせてくださり、感謝します。どうか、わたしたちが、共に、あなたの御声を聞きつつ、生きた石として用いられ、互いのために執り成して祈る、霊的な家につくり上げられますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月8日 ウェストミンスター小教理問30

御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。
(答え)御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当てはめてくださるのは、わたしたちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつけることによってです。

 キリスト教信仰において、大切な教理理解の一つは、わたしたちの救いは、わたしたちの信心・自由意志・自己努力によるのではなく、ただ、神の恵みによるのであり、聖霊なる神の全面的かつ独占的な働きによることです。
 そのように聖霊なる神の働きを認識することにおいて、わたしたちは、救いを人の栄光に帰することなく、ただ、神の栄光を現すものとして信じます。
 この教理問答で用いられる「有効召命」とは、ただ、外面的に、御言葉に聞いていることを指して用いられる「外的召命」と区別して、内面的に、聖霊が働いて、確実に、わたしたちをキリストと結合させてくださること、救いに導き入れることを指しています。 
 聖霊が、キリストの獲得された贖いそのものを、わたしたちに適用してくださるとき、わたしたちの心の中に、信仰(心からなる信頼)を起こしてくださり、それによって、わたしたちを、霊的かつ生命的に、キリストのもとに呼び起こしてくださって、確実に、キリストの結合してくださるのです。
 「主(イエス・キリストご自身、じっさいに、聖霊)が彼女(リディア)の心を開かれたので、彼女はパウロの話(キリストの福音:良き知らせ)を注意深く聞いた」(使徒言行録16章14節)のです。 
 また、イエス・キリストは、「わたしの話した言葉によって、あなたがはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつなっている」(ヨハネによる福音書15章3,4節)と命じ、約束されました。
 今日も、聖書と説教において、キリストの言葉を聞き、キリストの救いの恵みを共にし、キリストの体なる教会の一員として、主をほめたたえましょう。

 聖書の言葉 
 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
                エフェソの信徒への手紙1章14節
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、聖霊の恵みによって、あなたの愛する独り子、イエス・キリストを信じ、心からなる信頼をお与えくださり、感謝いたします。どうか、日々、あなたの御言葉を聞く度毎に、聖霊によって、わたしたちの心が開かれ、「内なる人」が新たにされ、ただ、あなたの栄光を、ほめたたえるものとならせてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。


2018年7月1日 使徒信条

 我は、・・我らの主、イエス・キリストを信ず。(とくに「イエス」の御名)

 この「イエス」という名前は、当時のユダヤ社会では特別珍しい名前であった訳ではなく、旧約の時代においては、ヘブライ語で、「主は救い」を意味する、「ヨシュア」「イエシュア」に相当する名前が、ギリシャ語で、「イエス(音:イエスース)」と呼ばれるものです。
 それは、「主は救い」というその名のとおりに、「この子は自分の民を罪から救う」という約束の名前でした。
 ちなみに、ヨシュアとは、モーセの後継者です。神の御子でありながら、後継者の名を取られた理由は、謙遜であり、「イエスは彼ら(聖なる者とされる人たち)を兄弟と呼ぶことを恥じとない」(ヘブライ人への手紙2章11節)ためです。
 それは、イエス・キリスト自ら、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを讃美します」と言い、また「わたしは神に信頼します」と言い、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブライ人への手紙1章12,13節)言われるとおりに、永遠の神の御子でありなりながら、父なる神に祈る者となられ、愛する者たちを、神の家族:兄弟姉妹として、一人一人、その名を呼んでくださるためです。
 実に、イエス・キリストも、わたしたちと同じように、血と肉を備えられて、死をつかさどる者、悪魔をご自分の死(十字架の死)をもって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放してくださいました。
 このように、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストは、今も、ご自身が受けられた試練と苦しみをもって、試練を受けている者たちを助けてくださいます。主キリストが御子として神の家(教会)を忠実に治めておられることを信じ、御言葉を信じて祈りつつ、主をほめたたえて歩みましょう。
(ヘブライ人への手紙2章11~18節を参照:奨励)

  聖書の言葉 
 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリスト)名のほか、人間には与えられていないのです。  
                       使徒言行録4章12節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子を、わたしたちの罪の身代わりとするために、お遣わしくださり、感謝します。今、ただ、キリストの贖いのゆえに、お互いを兄弟姉妹として与えられたことを感謝し、あなたの愛しておられる、一つの神の家族として、御名と御心に適って、共に讃美し、共に祈る群れとしてください。唯一の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

 

 

2018年6月24日 ウェストミンスター小教理問29

キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。
キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。

 キリストが十字架の上でその身をささげられたことは、人々の罪によるものでありながら、神の御心においては、唯一の完全な犠牲(いけにえ)であり、神の義を満たす完全な贖いでした。
 贖うとは、買い戻すという意味で、キリストにおいては、罪の奴隷下にある者たちを、ご自身の血の代価をもって、必要な身代金を支払ってくださり、神のものとして買い戻してくださったという事です。
 ですから、キリスト教信仰とは、単に、正しい教えを理念的に信じ込むことではなく、神が成し遂げられた救いの御業をあるがままに信じることであり、聖霊は、キリストの贖いの恵みを、わたしたちに有効に当てはめ、適用してくださるのです。
 イエス・キリストは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイによる福音書16章26節)と問いかけられます。
 堕落ゆえに、永遠の滅びを招来した罪人は、ただ、キリストの贖いゆえに、永遠のいのちに至る救いを与えられ、聖霊によって、神の所有とされることにいて確実に救われます。
 また、イエス・キリストは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)と言われました。わたしたちは、皆、聖霊の恵みによって、罪に死に義に生きる者とされます。そして、わたしたちは、自己本位の人生から、神の栄光を第一とする人生への転換され、キリストが治める神の家族の一員とされるのです。今日も、聖霊の結ぶ実を感謝しましょう。

 聖書の言葉 
 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子する霊を受けたのです。          ローマの信徒への手紙8章15節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの愛する独り子、イエス・キリストの成し遂げられた、十字架の贖いを、今、聖霊によって、わたしたちの命として適用してくださり、感謝いたします。どうか、日々、ただ、恵みによって、あなたの所有(もの)とされたことを感謝し、あなたの栄光を、御心にかなってあらわす者としてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。