2019年3月17日 ウェストミンスター小教理問答問58

第四戒では、何が求められていますか。
(答え)第四戒が求めている事は、神が御言葉において、はっきりと七日のうち丸一日をご自身のための聖安息日にすると指定されたとおりに、その定めの時を神に対してきよく守ることです。

 十戒の第四戒は、安息日律法とも呼ばれる、礼拝の日を規定する戒めですが、旧約の時代、イスラエルの民は、しばしば、この戒めのとおりに、安息日をきよく守ることができませんでした。
 異教国バビロンに連行され、イスラエルの民が、捕囚の民とされた時、預言者エゼキエルは、このように民に、主の御言葉を教え、命じました。「おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの主である。」(エゼキエル書20章7節)、「わたしは、彼ら(エジプトの地から荒れ野に導いた人びと)にわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしは彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。しかし、イスラエルの家は荒れ野でわたしに背き、人がそれを行えば生きることができるわたしの掟に歩まず、わたしの裁きを退け、更に、わたしの安息日を甚だしく汚した。」(エゼキエル書20章13節)
 このように、安息日とは、主のもの(所有)であり、それを守るとは、主の清さにかなって守ることであって、主の掟に歩まないことを、主のきよさを「汚す」と言います。
 つまり、安息日律法の正しい理解における一つの要点は、聖なる神の御前にある聖別です。この教理問答が、安息日を「聖安息日」と呼ぶ理由もここにあります。主日公同礼拝は、しばしば、聖日礼拝と呼ばれます。呼称はともかく、大切なことは、ただ、キリストの贖いのゆえに、聖別された者が、復活の主イエスを知るために定められた時を、聖なる「神に対してきよく守ること」です。

  聖書の言葉
 それは、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。エゼキエル書20章16節

 わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、わたしたちは自分の偶像にひかれ、あなたの安息日を汚す罪を犯してきました。そのような、わたしたちをあなたは憐れんでくださり、滅ぼすことなく、御子の命において贖い、主を喜ぶ日として安息日を与えてくださったことを感謝します。どうか、この計り知れない、あなたの愛と慈しみのゆえに、主の安息日を守ることができますように、助けてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月10日 ウェストミンスター小教理問答問57

第四戒は、どれですか。
第四戒はこれです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」。
 
 十戒は、出エジプト記20章では、基本の箇条は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」ですが、申命記5章では、「安息日を守ってこれを聖別せよ」です。同じ十戒が命じられ、教えられる時に、「心に留める」と「守る」の二つの言葉が用いられています。今、わたしたちにとって、安息日を「心に留め」「守る」とはどういうことでしょうか。
 それは、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストを主と信じ、告白する日を大切にすることであると信じます。それは、イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活された、一週の始めの日を指し示し、天地創造の第一日、そして、聖霊降臨の日を思い起こす日です。
 じつは、天地創造の第七日をもって、安息された日の中に、主の御手の働きにおいて、日々の、すべての人の歩みが置かれています。現代日本の日常生活の中で、人の仕事の多くが休止するのは、日曜日ではなく元日でしょう。忙しい今日でも、工場が停止し、車が走らず、人間活動が休止すると、かえって、都会地においても、普段より空気は澄み、一時の静けさが取り戻されます。
 この不変の神の安息の中に生かされながら、その安息を創造主でいますまことの神のもの(所有)として感謝することが、すべての人に命じられる礼拝の日の意味なのです。安息日の主が、イエス・キリストであることを思い起こし、真実の礼拝を守ること、ここに、第四戒を「守る」、今日的意味があります。

  聖書の言葉
 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。              歴代誌下36章21節    

 わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、天地万物を創造し、出エジプトの時、イスラエルの民を導き、あなたの御心に適って、愛する独り子を、わたしたちのために遣わしてくださいました。安息日の主は、あなたの御子イエス・キリストです。どうか、わたしたちが、主日公同礼拝を守る度毎に、十戒を唱える時、十字架と復活の主と共にある、真実の礼拝をささげる者としてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月3日 使徒信条

 我は、…永遠の命を信ず。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書20章31節)と福音書が伝えるとおりに、「永遠の命」とは、救い主イエスの名という、救いの命を受けることです。
 それは、主の復活を信じ、弟子たち同様に、永遠の神の喜びが満ちあふれることです。
 ウェストミンスター大小教理問答は、人生の目的は、「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」と言いました。それは、ただ、主イエス・キリストの贖いを信じて、聖霊の恵みによって生きるときに、与えられる、礼拝の喜びであり、慰めです。
 使徒ヨハネは、新しいエルサレムの幻を見てこう言いました。「わたしは都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(ヨハネの黙示録21章22、23節)
 それは、昔、神殿に契約の箱が安置され、神の臨在が現され、そこで祭司が執り成しの祈りと動物犠牲をささげたように、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、イエス・キリストこそが、神にささげられた小羊であり、にその贖いの御業が、天上において完成されることを意味しています。
 このキリストが備えておられる、天上の喜びを、今、ここで信じることこそ、「永遠の命」を信じること、つまり、永遠の喜び、慰めを信じることです。
 それは、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピの信徒への手紙1章20節)との祈りに至るほどに、真剣に、地上の生涯を生きることと一つです。今日も、キリストに贖われた命をもって、皆共に、永遠の喜びと神の栄光をあらわしましょう。

  聖書の言葉
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 
                   ヘブライ人への手紙13章8節    
 わたしたちの祈り
 天にいますわたしたちの父なる神さま、あなたの愛する独り子の名をもって、わたしたちをあなたの命にあずかる道を開いてくださり、感謝します。どうか、いつも喜び、どんなことにも感謝し、絶えず祈ることへと、わたしたちを導いてください。そして、この喜びと感謝と祈りこそが、御子の贖いによってわたしたちに与えられた救いの喜びであることを信じる者としてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年2月24日 ウェストミンスター小教理問答 問56

第三戒に加えられている理由は、何ですか。
第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。

 十戒の第三戒には、「主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」(出エジプト記20章7節聖書協会共同訳)との理由が付いています。これは、とくに、祈り、讃美、告白、誓いという、真心が求められている礼拝のすべてを、主なる神御自身が、それを正しく裁かれることを教えるものです。
 その一方で、多くの人々にとって、主の律法は、厳しい戒律を命じるもの、到底、自分にはついて行けないとの印象も与えているかもしれません。
 しかしながら、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光(ひかり)を与える。」(詩編19編8、9節)と教えられるとおりに、本来、主の律法は、人間にとって、心の喜びから出て来る聖なる神礼拝また神讃美と等しいものです。
 つまり、主の律法がしばしな心情的に忌み嫌われる根源的理由は、人間自身の内にある罪と心の頑なさです。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられる」とき、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、(主の律法に適う)義という平和に満ちた実を結ばせる」(ヘブライ人への手紙12章11節)と、聖書は、主の律法に従う過程における、悲しみから真実の平和に至る道を約束します。
 主の律法に従うことには鍛錬が伴いますが、主の霊によって、神と和解し、救いの恵みと良心の平和によって生きることそのものです。主イエスの負われた重い罪の軛(くびき)のゆえに、互いに重荷を担い合い、主に従いましょう。

 聖書の言葉
 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。        ローマの信徒への手紙5章21節    
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、御子の十字架の死に至る生涯において、あなたの律法の要求を満たしてくださり、御子を律法の目標、終わりとしてくださいました。どうか、わたしたちが、あらゆる苦難の中でも、主の御言葉と律法を求めて忍耐しつつ、真心から礼拝をささげつつ練達し、あなたの御名によって絶えず祈り、献身する者とならせてください。わたしたちの愛する主、教会の頭、すべての人の主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2019年2月17日 ウェストミンスター小教理問答 問55

第三戒では、何が禁じられていますか。
第三戒が禁じている事は、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用するすべてのことです。

 この「神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなもの」のうち、最も大切なものは、神の言葉である聖書です。
 イエス・キリストが、悪魔から三度、誘惑を受けられた時のことです。その二度目の時、「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないよに、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と聖書の言葉を悪用して、命をねらいました。このとき、主イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われ、悪魔の誘惑を退けました(マタイによる福音書4章5~7節)。
 このように、たとえ、聖書の言葉が正しくても、それを悪用する時、それは、神を試みる罪を犯すことになります。現代社会において日常的に犯されている罪の一つが、聖書やその登場人物などをキャラクターにして商業用に使ったり、人の御利益のための単なる宗教書に利用したりしていることにあります。
 主イエスは、「聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネによる福音書5章40節)と言われました。
 また、イザヤ書53章を読んでいた、エチオピア人の宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒言行録8章31節)と言い、フィリポからイエスについて聖書の説き明かしを聞いて、主を信じ、洗礼を受けました。今日も、聖書の言葉の説き明かしを聞き、主イエスを信じましょう。

 聖書の言葉
 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。                 ヤコブの手紙1章21節    
      
 わたしたちの祈り
 恵み深い父なる神よ、あなたは、ご自身と救いの御業を、聖書の御言葉によって啓示してくだいました。そして、聖書の全体が、御子イエス・キリストが、本当に、神の独り子であり、十字架の死と復活が、神の約束の御業であることを証しています。どうか、聖霊の導きによって、御言葉を信じ、あなたの御前に自分の罪を認めつつ、御子の成し遂げられた贖罪の御業を信じ、あなたとの和解の道を歩みつつ、あなたの御名にふさわしく導きいてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの聖なる御名によって、祈ります。アーメン。
 

 

2019年2月10日 ウェストミンスター小教理問答 問54

第三戒では、何が求められていますか。
第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。

 わたしたちの教会生活において、神の御名をきよく敬虔に用いるときとは、主日公同礼拝の時であり、また、家庭・個人礼拝の時です。とくに、神の御前における誓約と、讃美と祈りにおいて、御名は正しく用いられなくてはなりません。
 洗礼式においては、信者もしくは、信者の親が、神と教会の前に誓約します。また、信仰告白式、教師任職式、牧師就職式、治会長老及び執事任職式、転入式、加入式等も同様です。
 そこで誓約されることは、神の御前にある、真心からなる信仰告白でなければなりません。小会・中会・大会は、絶えず、そのことを吟味し、確かめながら、主の召しに応える教会であることを祈り求めています。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマの信徒への手紙10章17節)と教えられるとおりに、わたしたちの信仰は、十字架の死から三日目に復活されて、天に上げられた、イエス・キリストの御業を、神の約束の実現と証しする、神の言葉である聖書の言葉をもって、告げられるものです。
 主イエス・キリストが、「一切誓いを立ててはならない」(マタイによる福音書5章34節)と命じられたとき、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という聖書に反する教えが、人々に教えられていました。それは、絶対に失敗をゆるさない教えであり、自他を裁くに早い教えでした。聖書の教えは、むしろ、
罪の赦しの福音であり、罪を内面的な、頑固なもの、人間の力では解決できないものと教えます。本当の誓いは、ただ、神の力に依りすがるものであって、
神の憐れみによって、御子の命を信じてなされる誓いこそ、真実の誓約です。

 聖書の言葉
 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。             ヘブライ人への手紙6章17節    
      
 わたしたちの祈り
 主イエス・キリストの父なる神よ、あなたは、ご自身の約束と誓いにおいて、あなたの契約が変わらないものであることを示してくださり、感謝します。どう、わたしたちが、あなたの約束と誓いという、二つの不変の事柄を心に留めて、わたしたちが誠実でなくても、あなたが常に真実であられることを信じ、あなたの御名による誓約に恥じることない、聖なる生活へと絶えず導いてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2019年2月3日 使徒信条

 主は、…天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、…

 主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活され、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。この時、弟子たちが、天を見つめていると、白い服を着た二人の人(御使い)がそばに立って言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあながたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節)
 主イエス御自身、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」「行ってあながたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2,3節)と約束されたとおりに、天に上げられた一つの目的は、ご自身の贖われた民のために、天の住まいを準備するためです。
 もう一つの目的は、主が再び来られる日まで、御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになり、御子によって御父が万物を統治するためです(ハイデルベル信仰問答問50)。
 今、この恵みの時代、救いの日に、主イエス・キリストの御名によって祈るとは、じつに、ただ、キリストの贖いのゆえに、神との和解をいただいている者として祈ることにほかなりません。 
 御子は、約束の聖霊を通して、ご自身の体としてくださった、わたしたちのうちに、ご自身の賜物のはかりに従って恵みを与えてくださっています。教会の霊的成長は、ただ、このキリストの執り成しと恵みによります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において、一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」こと、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」(エフェソの信徒への手紙4章14、15節)をもたらしている聖霊の働きを信じ、共に、仕え合いましょう。

 聖書の言葉
 それでまた、この方(御子、イエス・キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。      

                                 ヘブライ人への手紙7章25節    
      
 わたしたちの祈り
 主イエス・キリストの父なる神さま、今、わたしたちが、ただ、あなたの愛する独り子の名をもって、あなたに近づく、まことの祈りへと導いてくださり感謝いたします。どうか、主イエスを死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことを、イエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものを備えてくださいますように。永遠の契約の血による大牧者イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月27日 ウェストミンスター小教理問答 問53

第三戒は、どれですか。
第三戒はこれです。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主はみ名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」。

 十戒の第三戒は、わたしたちに、礼拝の心と態度を教えています。それは、じっさいに、唯一まことの神の名(名前、御名)を敬虔に用いることの大切さを教えるものです。
 人間同士であっても、名前は大切なものです。単なる他の人と区別して用いるための記号ではなく、人格を指し、また、その人自身を指します。ですから、名前は呼び、呼ばれることにおいて、意味を持ちます。
 そして、聖書の神の特徴は、特定の人間と恵みの契約を結んでくださることにあります。実に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名こそ、契約の神の名にふさわしい呼び名です。
 モーセがイスラエルの民の指導者として召されたとき、神は、「わたしはあなたの父の神である。」と言われ、この契約の名を示されました。そして、モーセが、「「あなたたちの先祖の神が、わたしをここ(エジプト)に遣わされたのです」と言えば、イスラエルの人々が、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」との問いに答えて示された名が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(しゅ)」「わたしはある」という名です(出エジプト記3章14節)。
 わたしたちは、今、イエス・キリストを「アブラハムの子、ダビデの子」として知り、そして、十字架の死から復活され、天にあげられたこの方を、「主」とあがめる、神礼拝に導かれています。
 それは、父・子・聖霊という三位一体の神から示された、御子の名であり、また、その存在は、歴史の神・主であり、同時に、永遠の神・主であることを示しています。この神の名において成り立っている礼拝を大切にしましょう。

 聖書の言葉
 神よ、あなたの名によって私(わたし)を救い あなたの力によって私(わたし)を裁いてください。神よ、祈りを聞いてください。この口の言葉に耳を傾けてください。             詩編54編3,4節聖書協会共同訳    
      
 わたしたちの祈り
 わたしたちの主、イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちをあなたの名において、呼んでくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが祈りと賛美と感謝をささげる度毎に、わたしたちの罪をあなたの御前に悔い改めつつ、あなたの名によって救われ、あなたの力によって義とされた者として、清い畏れと敬虔な心をもって、あなたの名を呼ぶことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。
 

 

2019年1月20日  ウェストミンスター小教理問答  問51
 
第二戒では、何が禁じられていますか。
第二戒が禁じている事は、像による神礼拝、または神の御言葉に指定されていないあらゆる他の方法による神礼拝です。
 
  旧約時代において,神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒は、イエス・キリストが来られたこの新約の終わりの時代においても、神の真実を証ししています。
  使徒パウロは、「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来
た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(コリントの信徒への手紙一10章1~4節)と言いました。
  ここで、コリント教会の皆が、「兄弟たち」と呼びかけられ、モーセの時代のイスラエルを指して、「わたしたちの先祖」と呼ばれています。このことは、ユダヤ人、異邦人を問わず、キリストを主と信じる者たちは、イスラエルの子孫であり、旧約のイスラエルから続く、「主の民」であることを意味していま
す。
  そして、明らかに、ここで、この霊的な岩たる御方、主こそ、「キリストだった」と告白されています。永遠の神でありながら、まことの人となられた、キキリスト御自身が、旧約の時代においても、イスラエルの民を養うために生きて働いておられたのです。
  今、わたしたちがささげる礼拝において、偶像とは、このキリストを主とあがめることを妨げるものすべてです。ですから、偶像を通して礼拝することも、キリストの代わりに偶像を礼拝することも、あってはなりません。神の恵みに満ち足りることを知らない、空しい貪欲、量と数の追求も、偶像礼拝です。
 
  聖書の言葉
  主よ、まことの神よ  私(わたし)の霊を御手に委ねます。あなたは私(わたし)を贖(あがな)われた。
  私は空しい偶像を守る者を憎み  主に信頼します。詩編31編6節 聖書協会共同訳        
            
  わたしたちの祈り
  天にいます、わたしたちの父なる神さま、わたしたちの罪を、ただ、御子の血によって贖ってくださり、感謝いたします。そして、今、わたしたちを、御子を教会の隅の親石としてくださり、わたしたちを生きた石として聖別してくださっていることを感謝いたします。どうか、主の贖いによって、聖と義され
た者にふさわしく、御言葉と聖霊によって清め、主に信頼する者としてください。教会の頭、主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月13日 ウェストミンスター小教理問答 問52

 第二戒に加えられている理由は何ですか。
 第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられるこ と、神が私たちの所有者であられること、神が御自身への礼拝に熱心をもっておられることです。

 十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章4節)は、さらに、「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなる形をも造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられ、それに加えて、「①わたしは主、②あなたの神、③わたしは熱情の神である」との三つの理由が、ここに教えられています。
 それは、第一に、天地万物を造り、エジプトからイスラエルの民を導き出された神が、わたしたちの主であり、主権者であり、統治者であること。第二に、この主なる神がわたしたちの所有者であり、支配者であること、第三に、このわたしたちの主である御方が、自ら、真実の礼拝を与え、その礼拝に熱心をお持ちである嫉む神であるということです。
 礼拝は、創造者であり、立法者でいます、神の主権と権威のもとにあります。また、わたしたちが、神を、わたしたちの主と呼ぶことができるのは、ただ、御子イエス・キリストの尊い血をもって、わたしたちの罪の代価を完全に支払ってくださり、神ご自身の所有(もの)としてくださったからです。そして、神は、わたしたちが、神のかたちに造られ、罪贖われた者として、恵みの契約の仲保者イエス・キリストにおける、契約の民として、霊と真理によって、神自ら命じ、規定された、礼拝の心と態度と方法において、礼拝のすべてにおいて、ご自身の栄光があらわれることを求めておられるのです。なおむなしいものを慕う、肉の思いを清められて、一途に主を愛し、礼拝しましょう。

 聖書の言葉
 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。
                          詩編86編11節    
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは愛する独り子をお遣わしくださり、わたしたちのために救いの門を開いてくださり、今、あなたと顔を合わせる礼拝の恵みをお与えくださり、感謝いたします。どうか、御子の尊い血によって贖われた群れであるわたしたちが、御子を頭とする一つのからだとして、いよいよ、一つの心で、主の勝利と平和を、この世のただ中で、証しする者としてください。
わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月6日 使徒信条

我は、…聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず。

 使徒信条において、わたしたちが、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白するとき、三位一体の神の御業の中に、キリストの救いの実りとして、この世のただ中に、その姿を表している、神の真実を告白します。
 御言葉と聖霊の導きの中に、恵みの契約における礼拝共同体としてわたしたちは、キリストにおいて、「永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であることを、「まことの信仰の一致において」告白します(ハイデルベル信仰問答 問54)。
 それは、主イエス・キリストご自身、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネによる福音書15章5節)と約束されたとおりに、イエスを主と告白する、兄弟姉妹たちは、「わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける」(ハイデルベルク信仰問答 問54)との信仰理解に導かれます。
 しばしば、この生命的な教会理解よりも、教会が有機的に組織されることについての誤解や無理解があります。しかし、まことの教会には、本来、神とキリストにおいて召し集められた群れ(エクレシア)以外の信仰理解はあり得ないのです。
 そして、十字架の死から三日目に復活し、もろもろの天よりも高く昇られた主は、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与え」てくださっています。それは、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされ」る御言葉の奉仕に仕えるものです。  
 この意味で、教会役員(牧師・治会長老・執事)は、群れと区別された上級管理者ではなく、群れの中の、皆と同じ、主の僕、主の奉仕者に過ぎません。
そして、わたしたちは、真実の愛において、「頭であるキリストにむかって成長し」「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく」(エフェソの信徒への手紙4章7,15,16節)のです。

 聖書の言葉
 キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた 
                      テモテへの手紙一3章16節
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架の死からの復活と昇天において、あなたは、わたしたちをあなたのもとに一つとするために、召し集めてくださったことを感謝いたします。どうか、「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築く」(テモテ一6章19節)者として、互いに、主の恵みによって生かされ、執り成す者としてください。祝福に満ちた唯一の主権者でいます主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2019年1月1日 ウェストミンスター小教理問1

人の主な目的は何ですか。
人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 御言葉の奉仕者のための、教理問答では、「人間の第一の、最高の目的は、神の栄光を現し、神を永遠に、この上なく喜ぶことです。」(ウェストミンスター大教理問答問1)と、この第一の問いをより丁寧に告白しています。
 神が約束された救い主、イエス・キリストの誕生の夜、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)と、天の大軍は、神を賛美しました。
 それは、当時、神とされ、絶対的権威をもつ者とされていた、ローマ皇帝に着せられていた栄光を、まことの神、まことの王でいます、主キリストに帰することを意味しました。
 そして、「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ書9章5節)、キリストの十字架の上において成し遂げられた、贖いと罪の赦しの御業において、わたしたちは、国家権力、軍隊、武力によらない、神との和解において、お互いの間に平和を創り出す、神の子とされます。
 「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟(きょうだい)と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を わたしの兄弟(きょうだい)たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』」(ヘブライ人への手紙2章11、12節)と証しされているとおりに、ただ、主イエス・キリストの御名において、祈りと賛美と感謝を、神にささげる、礼拝の交わりを共にしています。
 この人生第一の目的を、わたしたちがいつも心に留めて歩むとき、わたしたちは、「腹を神とし、恥ずべきものを誇り」(フィリピの信徒への手紙3章29節)とする罪を悔い改め、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」(コリントの信徒への手紙一10章31節)するのです。

 聖書の言葉
 しかし私には、神に近くあることこそが幸い。私は主なる神を逃れ場とし あなたの業をことごとく語り伝えよう。   詩編73章28節 聖書協会共同訳
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、人生の第一の目的は、わたしたちではなく、あなたの栄光をあらわすことであることを示してくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが、この人生第一の目的に向かって、キリスト・イエスによって捕らえられて、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が与えてくださる賞を得るために、目標を目指して、ひたすらに走らせてください。祝福に満ちた唯一の主、イエス・キリストの栄光の御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年12月30日  ウェストミンスター小教理問50
 
第二戒では、何が求められていますか。
第二戒が求めている事は、神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべてを、受けいれ、実行し、純正完全に保つことです。
 
  わたしたちのささげている礼拝は、人間本位の選択的理由によるものではなく、はじめから、神の栄光を第一とし、神の御言葉において指定されたとおりの宗教的礼拝を求めるものです。
  それは、「具体的には、キリストの御名による祈りと感謝、御言葉を朗読すること、説教すること、聴くこと、礼典を執行し、これを受領すること、教会政治と戒規(教会訓練)、牧師職とその維持、宗教的断食、神の御名による誓約と神への誓願」「あらゆる偽りの礼拝を認めず、嫌悪し、反対すること、各自の立場と召しに応じて、あらゆる偽りの礼拝を排し、偶像崇拝に関わる像を残らず取り除くこと」(ウェストミンスター大教理問答 問108)です。
  宗教(religion)とは、神と再び結びつくという意味があります。つまり、わたしたちのささげる礼拝の要は、ただ、キリストの贖いのゆえに、罪赦され、聖霊によって、直接、神を礼拝する自由を与えられたことにあります。ここに、わたしたちが守るべき、本当の宗教的自由があります。
  この宗教的自由は、信仰の自由であり、礼拝の自由、そして、福音宣教の自由です。そして、この自由を、わたしたちは、「きょうだい(兄弟・姉妹)たち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5章13
節  聖書協会共同訳)と命じられるとおりに、外面的な儀式、律法主義によらず、今、ただ、キリストの御名において、信仰によって義とされる希望と、愛によって働く信仰という、真実の敬虔と実践を求めることが、肝心です。
  今日、ただ、主イエスが「あながたがに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章20節)と弟子たちに命じられたように、礼拝のすべてにおいて、主の救いが告白されることを求めて祈りましょう。
 
  聖書の言葉
  「あなたがたは、私(わたし)を誰に似せるのか。私(わたし)が誰と等しいというのか」と聖なる方は言われる。  イザヤ書40章25節  聖書協会共同訳
            
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、愛する独り子を十字架の上にかけられたほどに、この世の罪は、あなたの命じられる礼拝に背を向け、むなしい偶像を神としています。
どうか、キリストの贖いによる神礼拝を求めつつ、真心から神に近づくことができますように。そして、互いに、キリストにおいて救われた自由と恵みによる信仰によって、執り成す者としてください。わたしたちの愛する主、教会の頭でいます、主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年12月23日  ウェストミンスター小教理問49
 
第二戒は、どれですか。
第二戒はこれです。「あなたは自分のために刻んだ像(彫像)を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは(わたしは主、あなたの神)、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、
わたしの戒めを守るものには、恵みを施して(慈しみを示して)千代に至るであろう」。
 
  十戒の第一戒は、どなたを神として礼拝しなければならないか、という、礼拝の対象が、わたしたちに告げられています。そして、第二戒は、どのようにして神を礼拝しなければならないか、という、礼拝の方法が、命じられています。それは、わたしたちの心において、どのような形であれ、神に代わるものを想像し、それを造って、拝んではいけないこと教えています。

  主イエス・キリストは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書4章24節)と命じられました。それは、聖霊と御言葉による、神の真実を証しする礼拝を命じるものです。
  旧約時代、幕屋にも、神殿にも、周囲の国々のような、拝むための彫像(偶像)はありませんでした。調度品は、いずれも、主なる神が命じられた、神礼拝に仕える象徴的器具であり、それ自体を拝むことはあり得ませんでした。
  しかし、主イエスは、その時代、動物犠牲売買において、主の戒めに背く悪事をお怒りになり、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われました。実際に、そこでささげられていた礼拝は、形ばかりのもので、その心は、真実の神に背き、偶像礼拝の罪を重ねていたのです(ルカによる福音書19章46節)。主の降誕節の今日、神の愛とその真実を知り、偶像礼拝の罪を告白し、「アーメン」まことに、復活の主は真実な方です、と、告白しましょう。
 
  聖書の言葉
  主よ、いつまでなのですか。あなたは永遠にお怒りになるのでしょうか。あなたの妬(ねた)みは火のように燃え続くのでしょうか。 詩編79編5節  聖書協会共同訳
 
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、あなたは、人々が誇っていた、エルサレム神殿を滅ぼされた御方です。今、わたしたちは、十字架と復活の主、御子の贖いのゆえに、あなたの子とされ、聖霊の宿る、霊の神殿、神の宮とされています。どうか、日毎に、わたしたちのなお残る、様々な偶像を慕う、悪しき感情と汚れた心を
捨て、一つの心で、あなたを真実に、礼拝する者として導いてください。罪からの救い主、主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 2018年12月16日  ウェストミンスター小教理問48
 
第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉で、わたしたちは特に何を教えられていますか。
第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉が私たちに教える事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。
 
  聖書において啓示されている、生けるまことの唯一の神は、わたしたちに顔を向けられています。
  「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。どこに逃れれば、御顔を避けられよう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ  陰府(よみ)に身を横たえようとも  あなたはそこにおられます。」(詩編139編7、8節  聖書協会共同訳)と、創造主なる神の御顔が、どこにおいても、わたしたちを見ておられる
こと、しかも、注意深く、熱心に、わたしたちを心に留めておられることを、一人の信仰者は、全能の神が、すべてを知っておられること(全知)と、どこにでもおられること(遍在)を告白します。
  また、「もし私(わたし)たちが我(われ)らの神の名を忘れ  他の神に向かって両手を広げることがあるならば  神はそれを探り出さないでしょうか。」と訴え、「心に隠していることを神は知っておられます」(詩編44編21、22節 聖書協会共同訳)と告白します。
  それは、神が、わたしたち一人一人のどのような罪と咎(とが)をも知っておられることを認めているだけではなく、神がご自身の義に従って、わたしたちを裁かれることを畏れつつ、なおも、神のみが知っておられる真実に身をゆだねようとする者の心から注ぎ出された、祈りの言葉です。
  今、わたしたちは、御子イエス・キリストの十字架と復活を知るとき、神の義は、十字架を要求するほどに峻厳なものであり、御子の命を身代わりとするほどに、憐れみ深いものであることを認め、深い感謝と賛美と告白をささげます。他の神々を慕う罪から離れ、まことの神のみを愛し、礼拝しましょう。
 
  聖書の言葉
  御覧ください  私の内に偶像礼拝の道(痛みの道)があるかどうかを。とこしえの道に私(わたし)を導いてください。  詩編139編24節  聖書協会共同訳
 
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの背信と罪と過ちを宥める献げ物としてくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが日毎に、あなたが御顔を向けておられることを知り、心からの悔い改めに導かれ、あなたへの信頼を深め、心を注ぎ出して祈る者としてください。わたしたちの礼拝の主でいます、イエス・キリストの栄光の御名によって祈ります。アーメン。  

 

2018年12月9日 ウェストミンスター小教理問47

第一戒では、何が禁じられていますか。
第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。

「あなたは、私(わたし)をおいてほかに神々があってはならない」(出エジプト記20章3節 聖書協会共同訳)と、主なる神は、わたしたちに、唯一まことの神以外の神々があってはならない、と禁じておられます。
 それは、ただ、祈祷行為、礼拝行為だけが禁じられているのではなく、わたしたちの心と言葉と行いのすべてにおいて、まことの神を否定することが禁じられています。
 昔も、今も、しばしば、「○○の神様」と人間の手で造ったもの(偶像)や、ある人の比較的優れた能力を指して、自然の偉大さを指して呼ぶこともって、まことの神を否定しています。それらも、神が禁じておられる罪です。
 御子の降誕を伝える福音書においては、はっきりと、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところ(懐)にいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示された」(ヨハネによる福音書1章18節)と教えられています。
 この意味で、キリスト教は、イスラム教やユダヤ教と同じ一神教で、同じ神を拝んでいると言うことはできません。キリストにおいて、わたしたちは、本当の神を知り、認め、父・子・聖霊[三位一体]の神のみを礼拝するのです。
 また、「あなたの贖い主 あなたを母の胎にいる時から形づくられた方 主はこう言われる。 私(わたし)は主、万物を造った者。独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者」(イザヤ書44章24節 聖書協会共同訳)と、まことの神は、わたしたちに、その贖いと創造の御業を示しておられます。この神の偉大さと栄光をほかのむなしいものに取り替えることは決してできません。目を覚まして、ただお一人の神を礼拝しましょう。

 聖書の言葉
 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。          イザヤ書44章6節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちに愛する独り子の命を与えてくださり、感謝します。わたしたちが、日毎に、御子の命において、罪贖われた者として、あなたを愛し、信頼しつつ、あなたのみに、礼拝をささげ、栄光をあらわすことができますように。隠れた罪ととが(咎)と過ちを赦し、わたしたちの心を清めてください。主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年12月2日 使徒信条

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、…

 イエス・キリストの誕生は、降誕(こうたん)、受肉(じゅにく)、派遣(はけん)、顕現(けんげん)等と呼ばれます。それは、イエス・キリストの誕生が、ただの人間の誕生ではなく、永遠の神の独り子が人間となられたという、神の御業とその真実を証しするものです。
 使徒信条は、とくに、御子イエス・キリストが、聖霊によって、受胎したこと、そして、処女マリヤより生まれたことを教えています。
 それは、御子が、わたしたちと同じ人間としてお生まれになりながら、堕落したアダムゆえの罪の性質を受け継がず、罪がないという仕方で宿り、生まれたことを意味します。
 洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、イエスを指して声を上げました。それは、いつの時代、いつの世においても、すべての人が、すでに一度来られたイエスを知るときに、心を向けるべき御言葉であり、神の声です。
 なぜなら、御子イエス・キリストのお生まれになった目的は、わたしたちの罪を贖うためであり、それによって、神との交わりを失い、罪とその責任を増し加えている罪人の負うべき罪責と滅びの死を負ってくださったばかりでなく、神との交わりを回復し、神の義を目指して生きる命を与えてくださるためであったからです。
 「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)と御言葉のとおりに、待降節を迎える今日、わたしたちの罪のために死んでくださるために生まれた御子と神の約束を思い起こし、十字架の死から三日目に復活された主の再び来られる日を待ち望みましょう。

 聖書の言葉
 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
                      ルカによる福音書1章35節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、永遠の神でいます、御子イエス・キリストが、罪を贖うために、罪のない第二のアダムとなられた、あなたの計り知れない救いの御業を賛美します。どうか、罪のない御方が罪ある者とされ、十字架の上に裁かれた、あなたの真実に心を向けつつ、あなたの与えてくださった救いの道をともに歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月25日 ウェストミンスター小教理問46

第一戒では、何が求められていますか。
第一戒が私たちに求めている事は、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光をあらわすことです。

 わたしたちが、唯一まことの神のみを対象として礼拝することは、表面的に儀式を行うことではなく、むしろ、神からの語りかけに人格的に応答することです。ですから、祈りと賛美も口先だけのものはなく、心からささげられるものでなければなりません。 
 じっさいに、モーセをとおして十戒を与えられたイスラエルの民は、シナイ契約を結びながらも、個人においても、共同体においても、偶像礼拝を繰り返し、そのために二王国分裂、バビロン捕囚などのさばきを自ら招きました。
 それは、戒めが与えられても、その罪の心が変わらなければならないこと、また、あらゆる罪の誘惑から心が守られなければならないことを教えています。
 まことの預言者エレミヤは、「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる」と言い、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心をそれに記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」(エレミヤ書31章33、34節)と言いました。
 それは、第一戒を守るために、主なる神自ら、わたしたちの心にこの戒めを聖霊によって書き記してくださるという、恵みによる礼拝を約束します。
 恵みの契約の仲保者として、イエス・キリストは、この礼拝の心をわたしたちに与えてくださるために、十字架の上に死に、その身をささげてくださり、三日目に復活されました。ここに、礼拝の心が回復する力の源があります。

 聖書の言葉
 二人は、「(十字架の死から三日目の、復活の日、イエスが)道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。        ルカによる福音書24章32節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちの罪の身代わりに御子イエス・キリストの命をお与えくださり、感謝いたします。どうか、復活の主、御子の命によって贖われた心と魂において、わたしたちがあなたを知ることへと導かれた恵みによって、生き生きと、心を尽くして、あなたをほめたたえ、御名を呼び求める者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月18日 ウェストミンスター小教理問45

第一戒は、どれですか。
第一戒はこれです。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。

 十戒の序言は、主なる神が、イスラエルの民との契約の関係の中で、ご自身を啓示された、主であり、あがない主であることを示された、救いの歴史を物語るものです。
 そして、この第一戒は、じっさいに、わたしたちがどなたを神として礼拝することが、本来の正しい務め(義務)であるか、ということ、礼拝の対象が、ただお一人の神、主であることを明確に命じます。
 主なる神は、繰り返して、ご自身が、あなたがたの神、主であることを告げながら、エジプトの苦役の中から救い出された、イスラエルの民を、荒野の中で導いていかれました。
 そのとき、主なる神は、幕屋の祭壇において、毎日絶やすことなく、雄羊二匹、穀物のささげ物、ぶどう酒の献げ物をささげるように命じられ、このように約束されました。
 「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」(出エジプト記29章46節)
 このように、十戒の序言において告げられたことが、繰り返して、イスラエルの民に思い起こされながら、ただ一人の神である、主を礼拝することにおいて、わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、わたしたちと会見してくださるのです。今日も、主の御声を聞き、主の御顔を仰ぎ見ましょう。

 聖書の言葉
 しかし、主の方に向き直れば、(心の)覆いは取り去られます。…主の霊(聖霊)のおられるところに自由があります。コリントの信徒への手紙二3章17節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは罪深く頑な心を抱く、わたしたちに、絶えず、「わたしが、あなたがたの神、主である」とご自身を明らかにしてくださいます。聖霊の導きの内に、心の覆いと取り去られ、あなたに向き直って、あなたのみを礼拝し、日毎に悔い改めつつ、全生活においてただあなたにのみ栄光を帰させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月11日 ウェストミンスター小教理問44

十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。
十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。

 今日、義務という言葉を聞くと、多くの人は、色々なきまりやルールを守らねばならない、という自分の意に反して、あるいは、それとは関係なく、とても強制的で否定的な響きを感じるかもしれません。しかし、義務とは、本来、ただしい務めのことで、それ自体は、義務だからする、というよりも、果たして当然の事であり、むしろ、それは、本当の自由と喜びをもたらすものです。
 しかし、この当然の事が守られず、かえって、それに反することするばかりでなく、罪そのものに気づかないという、罪を皆、負っています。
 ですから、そのような罪を罪とも思わず、義務と義務とも思わない、無感覚と背信を重ねる罪人のために与えられたのが、十戒であり、その序言なのです。
 神が「主」であるとは、モーセに、神自らその名を明らかにしてくださった名です。「わたしある」という方、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」という、契約の神の名こそ、「とこしえにわたしの名」「世々にわたしの呼び名」であり、わたしたちが礼拝をささげるただ一人の神、主です。
 また、神は、「わたしたちの神」です。それは、イエス・キリストが、インマヌエル、「神は我々と共におられる」という意味の名をもって、お生まれになったように、今、わたしたちは、イエス・キリストを知ることにおいて、神が、わたしたちと愛の関係をもってくださるお方であることを知ります。
 そして、この愛の関係こそ、罪とは正反対の、本来の神との関係そのものです。じつに、神の愛する独り子(御子)、イエス・キリストが、自ら、十字架の上にご自身をささげられたことによって、わたしたちの罪の身代わりの犠牲、贖いとなってくださったのです。これこそ、今、わたしたちが、十戒を、主の掟として尊び、イエスを主と告白する礼拝をささげる義務の理由です。

 聖書の言葉
 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉でいきる』と書いてある。」
                    マタイによる福音書4章4節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の血と命をもって、わたしたちの罪を贖い、あなたの契約の中に入れてくださり、感謝いたします。いつも、主イエス・キリストこそ、わたしたちの道であり、真理であり、命であることを信じ、あなたを真心から礼拝・賛美・告白しつつ、あなたから与えられた愛の義務を全うさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

 

2018年11月4日 使徒信条

我は、…キリストを信ず。

 わたしたちの信仰は、聖書信仰とも、キリスト信仰とも呼ばれます。いずれにしても、信仰の根拠、対象、内容を問わない、信仰らしきもの(?)は、本来、存在しないでしょう。
 とすれば、わたしたちの信仰の根拠は、聖書にあります。それは、旧新両約聖書は、天地を造られた神を啓示し、全人類の堕落を教え、神と人間(堕落した罪人)との間の仲保者として、イエス・キリストの生涯とその福音を伝え、聖霊による神の国の進展と教会建設の御業を証ししています。そして、キリストの再び来られる日を待ち望みつつ、生きるように、命じ、励ましています。
 使徒信条において、告白されている、福音の中心は、三位一体の神と主イエス・キリストであり、その救いの御業であることが明らかにされています。
 聖書に書いてあるとおり、イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活し、天に上げられ、約束の聖霊がエルサレムで、心を合わせて祈っていた使徒たちの内にくだりました。
 そして、エルサレムから伝道がなされていく中で、ステファノの殉教の後、「…散らされた人々(の中に)は、‥アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」「二人(バルナバとサウロ(パウロ)は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めて(伝えられた福音のとおりに)キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒言行録11章19~26節)のです。
 わたしたちが、「キリストを信ず」と告白とき、わたしたちは、他の神々でもなく、むなしいものでもなく、目の欲、肉の欲でもなく、ただ、この御方のみに従うことを告白しています。そして、それによって、わたしたち自身も、「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれる身、見える教会の一員とされていることを恥じることなく、聖なる神、主の御前に献身しましょう。

  聖書の言葉
 ひたすらキリストの福音(喜びの知らせ)にふさわしい生活を送りなさい。
                    フィリピの信徒への手紙1章27節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、御子イエス・キリストと固く結び合わせて下さる、まことの信仰へと導いてくださり、感謝します。どうか、わたしたちに与えられた信仰を、絶えず、聖書の言葉によって検討・吟味しつつ、キリストの御名において呼ばれている教会の群れとして、あなたの栄光をあらわす者としてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年10月28日 ウェストミンスター小教理問43

十戒の序言は、何ですか。
十戒の序言は、次の言葉にあります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。

 十戒は、もともと、天地を造られ、イスラエル民をエジプトから導き出された主なる神自ら、二枚の掟の板に書かれたものです。
 それは、出エジプト記において、モーセがシナイ山で最初にこの板を神から直接与えられながら、「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」(出エジプト32章1節)、イスラエルの民が、アロンに懇願して、まことの神、主を知りながら、「我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」とがアロンに頼んで、金の子牛を作って拝むという偶像礼拝の罪を犯したときを思い起こさせます。
 「モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた「その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた」(出エジプト記32章16節)とあるとおりに、一度は、破壊されました。しかし、「主はモーセに言われました。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう』」(出エジプト記34章1節)と言われます。
 そして、主なる神は、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。」「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」「これらの言葉(『あなたは鋳造の神々を造ってはならない』『あなたは除酵祭を守りなさい』など、十戒の具体的な適用)を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」(出エジプト記34章10~28節)と言われ、契約を更新してくださいました。・・・これほどに、十戒は、人の教えではなく、神の言葉であることを、その序言は、今、わたしたちに思い起こさせるのです。

 聖書の言葉
 わたし(イエス・キリスト)が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
                    マタイによる福音書5章17節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、イスラエルの民を愛して、モーセをとおして、契約を更新し、十戒を再び与えてくださいました。どうか、あなたの慈しみをもって、わたしたちを憐れんでくださり、わたしたち一人一人の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。そして、ただあなたののみを礼拝できますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

 

2018年10月21日 ウェストミンスター小教理問42

十戒の要約は、何ですか。
(答え)十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。

 十戒の要約は、わたしたちに、一つの言葉、“愛すること”において神の律法の全体が要約されることを教えています。
 そして、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙一4章7,8節)と教えられるとおりに、ほんとうの愛は、
ただ、神の愛を正しく知ることにおいて、適切に、ふるまわれるものです。
 まことの預言者ホセアは、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。」(ホセア書11章1~3節)と言い、ご自身の契約と誓いにおいて、出エジプトの御業をなしてくださった、主なる神の愛と憐れみを忘れて、偶像礼拝を重ねた、イスラエルの忘恩と背信と無知の罪を、主なる神のまなざしにおいて、明らかにします。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)において示された“神の愛”は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネによる福音書3章14節)との御言葉のとおりに、十字架の上に上げられ、ご自身を罪の身代わりの犠牲とされた、永遠の神の独り子の、唯一の犠牲において示された、神の愛においてのみ、正しく知ることができます。「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(コリントの信徒への手紙一13章6節)、ただ一つの、本当の愛に生きましょう。

 聖書の言葉
 あなたがたは、わたし(主イエス)を愛しているならば、わたしの掟を守る。
                   ヨハネによる福音書14章15節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、十字架の上において、わたしたちの贖いとしてくださり、感謝いたします。どうか、ここに示された、あなたの真実の愛を信じ、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた者として、日毎に悔い改めと献身を新たにしつつ、霊の導きに従って生き、前進していく者とならせてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年10月14日 ウェストミンスター小教理問41

道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。
道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。

 「十戒は、シナイ山で神の声によって交付され、神によって二枚の石の板に書き記されて、出エジプト記20章に記録されています。初めの四つの戒めは、神に対する私たちの義務を、続く六つの戒めは、人に対する私たちの義務を、その内容としています。」(ウェストミンスター大教理問答問98)
 この出エジプト記20章に記録されている十戒は、申命(主の命令を再び告げるの意味)記5章において、再び、記録されています。そこでは、モーセが、全イスラエルを呼び集めてこう言いいました。
 「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。主は言われた。」
(申命記5章1~5節)と言い、シナイ契約において、主なる神が言われた言葉として、十戒(十の言葉)告げられます。
 そして、そこで思い起こされることは、出エジプト記においては、天地創造の御業と七日目の安息でしたが、申命記においては、それを土台として、出エジプトの御業が加えられます。
 つまり、十戒における礼拝の日であり、時である、安息日とは、神の御業を思い起こすために、命じられているものなのです。
 今、わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活、聖霊降臨の御業を思い起こしつつ、主日礼拝を守っています。道徳律法における愛の初め、善悪の初めに、十字架の上に示された神の愛があることを、まず覚えましょう。

 聖書の言葉
 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
                      ヨハネの手紙一4章9節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪の身代わりの犠牲としてくださり、感謝いたします。どうか、十戒の中に要約的に示されているあなたの掟を守るために、第一に、あなたの愛を深く心に留めることができますように。そして、ただ、あなたの栄光をあらわし、神礼拝と隣人愛に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年10月7日 使徒信条

我は・・聖なる公同の教会・・を信ず、

 わたしたちの主イエス・キリストは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)また、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)と言われました。
 それは、キリストの教会とは、はじめから、主イエス・キリスト御自身が建てられるものであって、教会は、その体制・本質において、維持・運営されるものではなく、むしろ、健全かつ霊的に、建設・成長するもの、神の恵みによって豊かな祝福の実を結ぶものであることを意味しています。
 それでは、この教会建設の土台、成長の地盤は、何でしょうか。それは、「この岩」という、神の啓示であり、キリストを証しする聖書の言葉であり、キリストを主と告白する信仰告白であり、それを宣べ伝える使徒的つとめです。
 ですから、主イエス・キリストは、この大切な約束を、使徒としての召命を与え、みずから、ペトロという名を付けられた弟子の一人の名をもって、わかりやすく、教会の唯一の土台をここに明らかにしてくださったのです。
 カトリック教会では、これを、ペトロ自身と解釈し、ペトロの首位性と使徒伝承を重んじ、“教会の外に救いはない”と、教会の権威を主張します。しかし、わたしたちプロテスタント教会は、権威の土台は、教会に帰属するものではなく、あくまでも、聖書のみであり、それは、キリストのみによる救いに至る道、そのものであると、聖書信仰そのものを教会理解として告白します。
 教会(エクレシア)とは、はじめから、神自ら召し出された群れという意味を持っています。「主イエス・キリストが、御自身の民を集め、これを全うするために、この地上に建てられた公同の教会は、見える恩寵の王国であり、いつの時代にも同一である」(日本キリスト改革派教会政治規準第二条:教会)ことを信じるとき、主に贖われた群れの一人であることを自覚するのです。
 
 聖書の言葉
 こうして、わたしたちは、…愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。エフェソの信徒への手紙4章15節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、御子イエス・キリストの召し集めれた群れとしてくださり、感謝いたします。どうか、あなたの愛に根ざして福音の真理を人々に告げ、また、主イエスが、わたしたちを愛してくださったように、互いに愛し合いつつ、あなたのこの上ない愛を表す者としてください。わたしたちの主、教会の頭、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月30日 ウェストミンスター小教理問40

神は、人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。

 世の多くの人々は、宗教と言えば、何らかの特定の規則に従う規律を課することを第一とすること思っているかもしれません。事実、多くの宗教は、自分を律する苦行を課し、また、様々な根本的な教え(たとえ、それが、神ではないものを神とする偶像であったとしても)をもとにしています。
 ですから、とりわけ、聖書信仰(キリスト教有神論)における、道徳律法の理解において大切な事は、創造主でいます、神御自身が、人間の服従のために初めから、一つのルール(原理・規則・規準)を示されたという事実です。
 それは、人間の心からの服従を求めるものです。しかし、初めに、業の契約において、始祖アダムは、神の啓示されたルールに背き、罪が世に入りました。
 しかし、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマの信徒への手紙2章14,15節)と教えられるとおりに、聖書も知らず、十戒を知らない者でも、その心に、道徳律法が書き記されているので、その良心的働きにおいて、人間は、物事の善悪を判断をしながら、神の与えられた道徳律(良心的規律)を基とする生活をしています。
 堕落と罪のために、かえって、その思いは暗くなり、また、善を知りながら、悪をなしてしまう、肉の弱さと痛みを身に負い、争いと悲惨を繰り返しながらも、道徳的社会が破綻していない理由は、ただ、神の憐れみによります。
 今、わたしたちは、「律法の目標(終わり)」(ローマの信徒への手紙10章4節)となられた、十字架の主、キリストの心をわたしの心とする道を与えられました。それは、神の完全な愛に適う道そのものであり、聖霊の賜物です。

 聖書の言葉
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
                コリントの信徒への手紙二2章16節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストが、律法の終わりとなってくださり、あなたの義を完全に満たしてくださったことを感謝いたします。どうか、あなたの契約と律法において、わたしたちが、いよいよ、聖霊の恵みによって、日々、あなたの示された道徳律法のすべてに聞き従うことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年9月23日 ウェストミンスター小教理問39

神が人に求めておられる義務は、何ですか。
神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。

 わたしたちは、数多くの規則、きまりの中で、ある秩序を重んじる生活しています。それらに慣例的に、あるいは、とくに、自分の意志に反して強制的に従うことは、ここで教えられている「神の啓示された御意志への服従」とは、その根本的原則・領域・方向が異なります。 
 「神の啓示された御意志」とは、具体的には、旧新両約聖書66巻のことを指しています。そして、そこで、神が啓示された御意志は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4節)と命じられているように、求められていることは、わたしたちの「心」「魂」「力」を尽くすことであり、神である主を「愛する」という、霊的で、一途なものです。
 しかし、そこには、始祖アダムにおいて堕落した人間においては、罪ゆえの心の覆いが除かれることが不可欠であり、かたくなな思いが、柔和な思いに変えられなければなりません。それは、ただ、聖霊の働きによることです。
 主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネによる福音書5章25節)と言われました。また、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネによる福音書18章37節)とも言われ、神の子の声、キリストの御声を聞く者こそ、聖書の言葉を、本当に心から従うべき信仰原理のみならず、生活原理であり、正しい規準そのもの、まさに真理であると信じて生きる者であることを明らかにしてくださいました。
 聖霊の恵みによる信仰の従順と良心的平和を求めつつ、人生の原理・規準・義務を、御子を証する聖書に求めつつ、真心から、主にのみ服従しましょう。

 聖書の言葉
…永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。ヘブライ人への手紙9章14節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の受肉と十字架の死と復活において、あなたの真実と愛を示してくださり、感謝いたします。どうか、聖書の御言葉を真実に開いてくださる御子の命をわたしたちの救いの命としてくださり、あなたが、わたしたちに命じておられる霊的義務を心を尽くして守り、あなたを愛する者としてください。愛する主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月16日 ウェストミンスター小教理問38

信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか
信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。

 わたしたち人間は、始祖アダムおいて罪に堕落し、神の御前に、永遠の死という罪の刑罰としての死を負う者となりました。聖書は、霊魂不滅説のように、漠然と生きることを救いのように教えているのでなく、むしろ、神の永遠の裁きを、御子イエス・キリストが十字架の死において身代わりに負ってくださったゆえに、信じる者たちが、三日目に復活され、天に上げられた、キリスト共に生きることこそ、救いの道、永遠の命、と教えています。
 このように、キリストを主と告白する信者たちが、「復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され」る
ことは、ほんとうに、キリストと結び合わされた者たちが、享受する、神とキリストから与えられた恵みであることを、心から感謝して告白することです。
 さらに、わたしたちが、キリストにおいて、罪贖われた者とされる目的は、神を礼拝することです。それは、「永遠に全く神を喜ぶ」という神の与えてくださる恵みを感謝し、その救いの恵みと賜物を受け入れ、神をほめたたえることです。
 「審判の日」は、滅びに定められた者と救いに定められた者が明らかになる日ではありますが、聖書の力点は、あくまでも、滅んで当然であった者が、キリストのゆえに、救われ、永遠に神を賛美することに定められることにあります。両者は、けっして、同じ度合いで物語られていないのです。
 今日、わたしたちは、「キリストの日」を共に待ち望みつつ、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピの信徒への手紙3章21節)ことを、ほんとうに信じます。この信仰にこそ、神の恵みと力が現れています。
 
 聖書の言葉
死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みか(完全な復活体)を上に着たいからです。コリントの信徒への手紙二5章4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の十字架の死からの復活の御業において、今、御子を信じる者たちを、死から命へと、日々、新しくされていることを感謝いたします。どうか、あなたの与えてくださる新しい体を着る日まで、なお罪のゆえにうめきつつ、すでに死に勝って余りあることを、ほんとうに信じて、主と共に歩ませてください。主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月9日 ウェストミンスター小教理問37

信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。

 ウェストミンスター小教理問答は、その第一問において、人生の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと[字義的には「享受すること」、つまり、神からあたえられた賜物をそのままに喜ぶ、霊的自由]と教えています。
 わたしたちが、ほんとうに、神の恵みを確かに受けた者として感謝を告白し、また、これから受けるものを信じて、望みをいだくことであり、そのすべてが、神を、どんな時にも、喜び、感謝し、祈る、霊的な生活そのものです。
 イエス・キリストが、神の御前に、身代わりの刑罰としての死を負ってくださったと信じる者にとって、もはや、刑罰としての死は、存在しません。なぜなら、神は、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、ご自身の選びの民を死に断罪する根拠をもはや持っていないからです。
 「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光には入る」とは、十字架の死から三日目に復活され、天にあげられたキリストの内に「入る」ことを意味します。わたしたちが、地上の生涯において、このことを「信じる」とき、迫害の中で、ステファノが、イエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えると言って、主のもとに召されたように、わたしたちも、イエス・キリストに、生かされている存在であることを受け入れるように変えられます。
 それは、ただ、聖書が教えていることをそのままに受け入れるだけでなく、イエス・キリスト御自身への信頼を深くしていく道です。
 「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休む」とは、復活の日を待つ「永遠の休息、眠り」のことを意味します。
 そうです。わたしたちは、この卑しい体が変えられて、キリストの栄光に似る新しい体において復活するのです。今、このことを信じるとき、肉体の弱さを覚え、死を恐れる時にも、復活のキリストを喜び、その日を待つのです。
 
 聖書の言葉
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
                  マルコによる福音書15章39節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの身代わりの命としてくださり、十字架の上で、あなたの怒りと呪いという永遠の裁きを引き受けてくださったことを、深い畏れをもって信じます。どうか、日毎に、キリストにおいて、あなたからの恵みと平安の中に、憩い、復活の日をほんとうに信じて歩ませてください。イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月2日 使徒信条

我は、・・罪の赦し、・・を信ず、

 「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」(イザヤ64章6節)と、主なる神の御前にあるイスラエルの民の罪を預言者イザヤは、告白しました。
 それは、主の御名を知りながら、礼拝せず、御力を求めず、そのゆえに、神と礼拝生活から遠ざかっている、人びとの「罪」の有様を物語っています。
 「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザヤ書33章22節)と告げるように、罪を正しく裁かれる方は、神のみであり、その唯一の基準は、神の法(律法)です。この神の裁きを御子が身代わりとなって負ってくださったのです。
 使徒パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章24節)と、「わたしの内に住んでいる罪」(7章17節)を自覚し、救いを求めて叫び、罪贖われた者として、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」(7章25節)という良心的矛盾をはらむ人間性を告白します。
 今、わたしたちが、主イエス・キリストに命じられたとおりに、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、パウロ同様に、聖霊に導かれながらも、なお残る内なる罪を自覚しつつ(罪人)、キリストにおいて罪赦された者として、わたしたちに対して罪を犯す者たちのために執り成して祈る者(義人)とされたことを日々告白します。
 それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章12節)と主イエスの掟に適うことでもあります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章21節)との御言葉に聞き従って歩みましょう。
 
 聖書の言葉
 しかし、赦しはあなたのものにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。
                         詩編130編4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの義と聖と贖いとしてくださり、心から感謝いたします。どうか、今、あなたの深い憐れみによって、罪赦され、あなたを畏れ敬い、礼拝することへと導かれたことを感謝し、主が与えてくださった兄弟姉妹と人々のために執り成して祈る者としてください。わたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月26日 ウェストミンスター小教理問36

この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。

 主イエス・キリストの十字架の血によって、贖われ、神の子とされた者たちは、「万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。」(詩編84編2節)との告白に連なる群れの一人とされた者です。
 それは、時には、「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(詩編13編2節)と思う時にも、変わることない、神の不変の愛です。
 そして、わたしたちを贖い、神に近づく生きた道を開かれたイエス・キリストが、「神の家を支配する偉大な祭司」であることを信じ、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこう」(ヘブライ人への手紙10章21,22節)と招かれ、奨励されています。
 さらに、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ人への手紙10章36節)と命じられています。
 このように、わたしたちがささげる礼拝こそ、イエス・キリストの贖いの目的である、神に近づく最高の機会です。そして、神と共に生きる道を備えられた者たちは、決して、自分に与えられた確信を捨てることなく、忍耐しつつ、主イエスの再び来られる日を待ち望むのです。
 この「確信」も「忍耐」も、人の信念や我慢ではなく、キリストの恵みであり、聖霊の賜物です。ですから、どのような時にも、失望落胆することなく、
主とその恵みの御言葉によって、日々、内なる霊において新たに歩みましょう。
 
 聖書の言葉
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
                   ローマの信徒への手紙5章5節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪のために唯一完全な身代わりの犠牲(いけにえ)としてくださり、感謝いたします。わたしたちが、キリストの血によって贖われた者として、いよいよ、あなたの栄光をあらわすにふさわしい者として、内なる思いを清められ、主を喜ぶ礼拝へと絶えず導いてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月19日 ウェストミンスター小教理問35

聖化とは、何ですか。
聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。

 神に造られながら、始祖アダムにおいて、罪に堕落した人間が、神の栄光をあらわすために、創造の目的にかなって、本来の人間らしさを取り戻すために不可欠なことは、第一に、その罪が赦され、神の子とされること(義認と子とされること(養子))、第二に、罪赦され、神の子とされた者として、その身分にふさわしい状態に造り変えられることです。
 「聖化」の御業は、御子イエス・キリストの唯一にして完全な、贖いの犠牲ゆえに、神のものとして聖別された者が、ただ、神の無償の恵みによって、聖霊によって、キリストに似た者に変えられていく道のりの全体に及びます。
 「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイの信徒への手紙3章9,10節 口語訳)と教えられているとおりに、キリスト・イエスの内に、聖霊の恵みによって、日々、わたしたちは、造り主である神のかたちに従って、その霊と心と考え、人格と全身のすべてを、新しくされつつ、地上の生涯において、完成に向けて歩んでいきます。
 それは、聖霊の恵みによる(受け身)でありながら、同時に、自分自身の知性と感情と意志を新しくされる(主体的)な行動を、わたしたちの内にもたらす仕方で明らかにされるものです。
 そして、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5章17節)と、主イエス・キリストが、十字架とその道において、ご自身の約束を成し遂げてくださったとおりに、わたしたちも、自分を捨て、自分の十字架を負いつつ、聖霊の御力によって、信仰と従順の道を共にしていくのです。

 聖書の言葉
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                   ローマの信徒への手紙6章22節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストにおいて約束してくださいました、聖霊をお与えくださり、わたしたちを、義と認め、神の子としてくださったばかりでなく、救いの命と聖なる生活に導いてくださっていることを感謝します。どうか、あなたの御言葉と聖霊によって、日々、霊肉に共、新しくされますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月12日 ウェストミンスター小教理問34

子とされることとは何ですか。
子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つものになるのです。

 「子とされること」と言う言葉は、もともと「養子とされること(adoption)
」と訳される言葉で、血縁関係でなく、法的関係において、子とされることを意味します。
 つまり、神と人間はもともと創造主と被造物の関係でありながら、ただ、神の恵みによって、神を父と呼ぶ子としての間柄を与えられるという事です。
 新約聖書の冒頭に、「アブラハム子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章1節)とあるように、もう一つの驚くべき関係は、永遠の神の御子である御方が、人の子としての御名をお持ちになったという事実です。
 そして、わたしたちが、神の子とされるためにこそ、御子イエス・キリストは、人の子として、その肉においては、罪をほかにしては、わたしたちと同じように、ヨセフの子として、契約の子の代表としてお生まれになりました。
 今、わたしたちは、「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤの信徒への手紙4章6節)と証言されているとおりに、御子の霊、聖霊が、神を父と呼び求める霊を、わたしたちの心に送られている恵みの事実を認めることができます。なんと、感謝なことでしょうか。
 「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)と言われるとおりに、贖い主である神、キリストが、ご自身の贖われた民、一人一人の名を呼ばれていることに応えつつ、救いの命を子としてあらわして歩みましょう。
  
 聖書の言葉
 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
                    ヘブライ人への手紙3章6節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの命を、わたしたちの身代わりの命としてお与えくださり、感謝します。今、あなたの子とされ、キリストの治めておられる神の家族の一人とされた者として、いよいよ、あなたを「父」と呼び求めつつ、あなたの御心に適う歩みの中に、わたしたち一人一人を導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月5日 使徒信条

 主は・・三日目に死人のうちよりよみがえり、・・。

 主イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活されたことを信じるとき、わたしたちは、弟子たちと同じように、復活の主がいつも共におられることを信じて歩むように変えられます。それは、主イエス・キリストが、今、ここで、復活の後、天に昇られた御方が、霊において、生きて働いておられる、まことの神であることを物語っています。
 使徒ペトロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と賛美し、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産(=神と共に歩むという希望、神が御自身の民のために確かに保持してくださる契約的祝福)を受け継ぐ者としてくださいました」と言いました。
 それは、主イエス・キリストの復活が、わたしたちにとって、この地上の生涯を歩む、忍耐と希望の源であることを証しするものです。
 そして、イエス・キリストが再び来られるとき、皆、「朽ちるもの」(死ぬべき、はかないもの)であっても、「朽ちないものに復活する」約束をいただいています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(コリントの信徒への手紙一15章56節)と叫ばれるほどに、神の律法は、わたしたちの罪を明らかにして責め立て、また、罪の結果としての死を指し示します。しかし、主の再び来られる日には、「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15章52、53節)との御言葉が実現するのです。
 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」し、「主の業に常に励み」ましょう(15章57、58節)。

  聖書の言葉 
 兄弟たちは、小羊(イエス・キリスト)の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
                    ヨハネの黙示録12章11節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子が、わたしたちのすべての罪と滅びの死を負ってくださり、十字架の死から三日目に復活されたことを信じ、御名をほめたたえます。どうか、罪の責め苦や、死への恐れを感じるときにも、主が最も近い御方であること信じ、絶えず、忍耐と希望をもって、歩ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年7月29日 ウェストミンスター小教理問33

義認とは何ですか。
義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受け入れてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。

 義認とは、無罪宣告です。それは、神の無条件の恵みによる一回的決定であり、神の働きによるものであって、人間の側には、一点もその功績の余地は残されていません。
 なぜなら、人間は生まれながら、アダムの堕落において、皆、原罪を負っており、その本性において、神に敵対する罪を負い、神の御前に最も善いことであっても、なお罪汚れている者であるからです。
 このように、罪は、外面的なものでなく、一時的なものでもなく、心と言葉と行いのすべてにおいて、全面的に神と隣人を愛することに適うためには、皆、聖霊の独占的で主権的な支配によるしかないのです。
 聖霊は、イエス・キリストが、ただ一度、十字架の上で成し遂げられた、完全な贖いを、わたしたちに有効に適用してくださり、信じる者すべてに、キリストの義を転嫁してくださいます。そして、「私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しい(罪赦された者)と受け入れて」くださるのです。なんと、驚くべき、神の憐れみでしょうか。
 アブラハムが、妻のサラ共々老齢になり、人の目には子宿すことができないことを知りながらも、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在される神」を信じ、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信し」「それが(神によって)彼の義と認められた」と、使徒パウロ言い、(ローマの信徒への手紙4章17、21、23節)ます。
 そして、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められ」(ローマの信徒への手紙4章24節)るのです。
このただ一度の、神による義認こそ、神との和解であり、神の救いです。  

 聖書の言葉
 いかに幸いなことでしょう。主に咎(とが)を数えられず、心に欺(あざむ)きのない人は。                    詩編32編2節
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストが、十字架の死と復活において成し遂げられた、唯一の贖いの犠牲のゆえに、信じる者を罪赦された者とし、あなたの恵みの契約とその祝福を受け継ぐ者としてくださり、感謝します。どうか、神の御力を信じ、信仰によって生きることができますように、助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月22日 ウェストミンスター小教理問32

有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。
有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。

 聖霊なる神の御業によって、御言葉の力のとおりに、わたしたちが、心を開かれ、自分の罪と悲惨とを自覚し、キリストを知るように心を照らされ、その意志をも新しくされるとき、十字架につけられ三日目に復活されたイエスこそ、神が約束されたキリスト、救い主であると、御子に関する、神の福音(よきおとずれ、良き知らせ、勝利宣言)を信じるように、有効に導かれます。
 そればかりでなく、この聖霊の御業によって救いに対して有効に召し出された者たちには、この世で、「義認、子とされること、聖化」と、「それらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます」。
 イエス・キリストは、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)と約束してくださいました。
 聖霊なる神の恵みが、イエス・キリストの福音を通して注がれるとき、その恵みにあずかる者たちの内から、救いの恵みとその祝福の豊かさが分かち合われることを意味しています。
 主イエス・キリストの福音は、罪人を救うだけではなく、救われた者たちを、ただキリストの贖いのゆえに、罪赦された者、義人と認めてくださり、神の子として愛ししてくださり、永遠の御国を受け継ぐ者としてくださいます。そして、主の霊によって、「わたしたちは皆、顔(もしくは心)の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。」(コリントの信徒への手紙二3章18節)
 今日も、主イエス・キリストの霊(聖霊)に導かれつつ、主の御業において、主の御心を求めて祈る者とされた祝福を共にし、御名をほめたたえましょう。 

 聖書の言葉
 救いは主にあります。あなたの民に あなたの祝福がありますように。                         
             詩篇3編8節 新改訳[3編9節:新共同訳]
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの十字架上で成し遂げられた贖いの御業において、今、わたしたちを聖霊の恵みによって、そのすべての祝福にあずからせてくださり、感謝いたします。どうか、心の罪が打ち砕かれ、全能の神の御力と、御子の復活の命を信じ、聖霊の喜びに生かしてください。教会の頭、主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月15日 ウェストミンスター小教理問31

有効召命とは、何ですか。
有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。

 主イエス・キリストは、種まきのたとえ話において、同じ御言葉の種が蒔かれても、道ばたに落ちて鳥が食べてしまったり、石だらけで土の少ない所に落ちて枯れてしまったり、茨の間に落ちてふさがれてしまったりすることがあることを教えてくださいました。良い土地に落ち、実を結ぶことができるのが、この教理問答の教える、「有効召命」であり、聖霊による救いの御業です。
 聖霊なる神(御霊)は、第一に、わたしたちに、聖なる神の御前に、罪ある者であることを自覚させてくださり、その罪を神が悲しまれているように、悲しむ感情を起こしてくださいます。第二に、わたしたちの心を、御言葉によって、照らしてくださり、キリストを知るように導き、わたしたちの意志を新たにしてくださいます。そして、第三に、キリストの十字架と復活において示された神の福音(良き知らせ、勝利宣言)を受け入れさせてくださり、イエスこそ、神の約束のキリスト、救い主であることを告白させてくださるのです。
 使徒パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソの信徒への手紙5章8、10、15、17節)と命じます。
 それは、キリストの救いに導き入れられながら、なお残る罪と闇につく思いとの戦いの中で、十字架の死から三日目に復活されたイエス・キリストが、わたしたちを照らしておられることを信じつつ、命じられる、聖潔の道です。
 主の霊に導かれつつ、キリストの命を喜ぶ道を共に歩んでいきましょう。

 聖書の言葉
 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。    エフェソの信徒への手紙4章30節  
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音」(エフェソ1章13節)を聞くために、聖霊の御業を有効に働かせてくださり、感謝します。どうか、わたしたちが、共に、あなたの御声を聞きつつ、生きた石として用いられ、互いのために執り成して祈る、霊的な家につくり上げられますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月8日 ウェストミンスター小教理問30

御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。
(答え)御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当てはめてくださるのは、わたしたちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつけることによってです。

 キリスト教信仰において、大切な教理理解の一つは、わたしたちの救いは、わたしたちの信心・自由意志・自己努力によるのではなく、ただ、神の恵みによるのであり、聖霊なる神の全面的かつ独占的な働きによることです。
 そのように聖霊なる神の働きを認識することにおいて、わたしたちは、救いを人の栄光に帰することなく、ただ、神の栄光を現すものとして信じます。
 この教理問答で用いられる「有効召命」とは、ただ、外面的に、御言葉に聞いていることを指して用いられる「外的召命」と区別して、内面的に、聖霊が働いて、確実に、わたしたちをキリストと結合させてくださること、救いに導き入れることを指しています。 
 聖霊が、キリストの獲得された贖いそのものを、わたしたちに適用してくださるとき、わたしたちの心の中に、信仰(心からなる信頼)を起こしてくださり、それによって、わたしたちを、霊的かつ生命的に、キリストのもとに呼び起こしてくださって、確実に、キリストの結合してくださるのです。
 「主(イエス・キリストご自身、じっさいに、聖霊)が彼女(リディア)の心を開かれたので、彼女はパウロの話(キリストの福音:良き知らせ)を注意深く聞いた」(使徒言行録16章14節)のです。 
 また、イエス・キリストは、「わたしの話した言葉によって、あなたがはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつなっている」(ヨハネによる福音書15章3,4節)と命じ、約束されました。
 今日も、聖書と説教において、キリストの言葉を聞き、キリストの救いの恵みを共にし、キリストの体なる教会の一員として、主をほめたたえましょう。

 聖書の言葉 
 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
                エフェソの信徒への手紙1章14節
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、聖霊の恵みによって、あなたの愛する独り子、イエス・キリストを信じ、心からなる信頼をお与えくださり、感謝いたします。どうか、日々、あなたの御言葉を聞く度毎に、聖霊によって、わたしたちの心が開かれ、「内なる人」が新たにされ、ただ、あなたの栄光を、ほめたたえるものとならせてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。


2018年7月1日 使徒信条

 我は、・・我らの主、イエス・キリストを信ず。(とくに「イエス」の御名)

 この「イエス」という名前は、当時のユダヤ社会では特別珍しい名前であった訳ではなく、旧約の時代においては、ヘブライ語で、「主は救い」を意味する、「ヨシュア」「イエシュア」に相当する名前が、ギリシャ語で、「イエス(音:イエスース)」と呼ばれるものです。
 それは、「主は救い」というその名のとおりに、「この子は自分の民を罪から救う」という約束の名前でした。
 ちなみに、ヨシュアとは、モーセの後継者です。神の御子でありながら、後継者の名を取られた理由は、謙遜であり、「イエスは彼ら(聖なる者とされる人たち)を兄弟と呼ぶことを恥じとない」(ヘブライ人への手紙2章11節)ためです。
 それは、イエス・キリスト自ら、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを讃美します」と言い、また「わたしは神に信頼します」と言い、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブライ人への手紙1章12,13節)言われるとおりに、永遠の神の御子でありなりながら、父なる神に祈る者となられ、愛する者たちを、神の家族:兄弟姉妹として、一人一人、その名を呼んでくださるためです。
 実に、イエス・キリストも、わたしたちと同じように、血と肉を備えられて、死をつかさどる者、悪魔をご自分の死(十字架の死)をもって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放してくださいました。
 このように、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストは、今も、ご自身が受けられた試練と苦しみをもって、試練を受けている者たちを助けてくださいます。主キリストが御子として神の家(教会)を忠実に治めておられることを信じ、御言葉を信じて祈りつつ、主をほめたたえて歩みましょう。
(ヘブライ人への手紙2章11~18節を参照:奨励)

  聖書の言葉 
 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリスト)名のほか、人間には与えられていないのです。  
                       使徒言行録4章12節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子を、わたしたちの罪の身代わりとするために、お遣わしくださり、感謝します。今、ただ、キリストの贖いのゆえに、お互いを兄弟姉妹として与えられたことを感謝し、あなたの愛しておられる、一つの神の家族として、御名と御心に適って、共に讃美し、共に祈る群れとしてください。唯一の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

 

 

2018年6月24日 ウェストミンスター小教理問29

キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。
キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。

 キリストが十字架の上でその身をささげられたことは、人々の罪によるものでありながら、神の御心においては、唯一の完全な犠牲(いけにえ)であり、神の義を満たす完全な贖いでした。
 贖うとは、買い戻すという意味で、キリストにおいては、罪の奴隷下にある者たちを、ご自身の血の代価をもって、必要な身代金を支払ってくださり、神のものとして買い戻してくださったという事です。
 ですから、キリスト教信仰とは、単に、正しい教えを理念的に信じ込むことではなく、神が成し遂げられた救いの御業をあるがままに信じることであり、聖霊は、キリストの贖いの恵みを、わたしたちに有効に当てはめ、適用してくださるのです。
 イエス・キリストは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイによる福音書16章26節)と問いかけられます。
 堕落ゆえに、永遠の滅びを招来した罪人は、ただ、キリストの贖いゆえに、永遠のいのちに至る救いを与えられ、聖霊によって、神の所有とされることにいて確実に救われます。
 また、イエス・キリストは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)と言われました。わたしたちは、皆、聖霊の恵みによって、罪に死に義に生きる者とされます。そして、わたしたちは、自己本位の人生から、神の栄光を第一とする人生への転換され、キリストが治める神の家族の一員とされるのです。今日も、聖霊の結ぶ実を感謝しましょう。

 聖書の言葉 
 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子する霊を受けたのです。          ローマの信徒への手紙8章15節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの愛する独り子、イエス・キリストの成し遂げられた、十字架の贖いを、今、聖霊によって、わたしたちの命として適用してくださり、感謝いたします。どうか、日々、ただ、恵みによって、あなたの所有(もの)とされたことを感謝し、あなたの栄光を、御心にかなってあらわす者としてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。