10月14日 牧会祈祷・聖書・説教・賛美

 

20181014日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。 コへレトの言葉317

 

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。…」

 

                             ルカによる福音書1018

 

 

 

序・何十億という人の数だけ、情報機器をもつ時代です。すでにあった人の隠れた小さなつぶやき(言葉)を、多くの人々が相互に知り得る道具をもった時代と言えるかもしれません。

 

1・コへレトの「つぶやき」は、「心に思った」と訳される言葉です。決して、「小声でひとりごと(不平)を言う」(新明解国語辞典)ことにとどまらず、ここには、あらゆる時代のただ中で、世界のすべての人が聞くべき、一つの真理が明らかにされています。それは、「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」ということです。

 

 ソドムの滅亡のとき、アブラハムが、「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者と悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなされるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記1825節)と、神に訴えたように、わたしたちのつぶやきは、祈りの心と深く結び付いています。

 

2・主イエス・キリストは問いかけられます。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。」と。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイによる福音書123437節)と言われました。それは、心と言葉の結びつきを明らかにするのみならず、主イエス御自身が、人のすべての言葉について「裁きの日には責任を問われる」と言われるのです。それでは、一体だれが、その責任をお互いに裁き合えると言うのでしょうか?! 神の御前においては、だれもいないのです。

 

3・わたしたちが、主イエスの言われることを「心から」信じ、従うために、不可欠なことは、肝心の「心」が、聖霊によって、罪と義と裁きについて、世の誤りが明らかにされること、そして、心が「悪魔から」守られ、心が「真理」へと導かれ、心が「生ける神(神の霊)」に向かって開かれる必要があります(ヨハネによる福音書16811節、使徒言行録1614節「リディア」、コリントの信徒への手紙二31618節)。

 

 主イエスは種まきのたとえ話の意味をと説き明かして言われました。「…道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」(ルカによる福音書81112節)ここに、福音宣教における霊的戦いを見ます。だからこそ、「霊的武具」(平和の福音・信仰・救い・神の言葉・祈り)を取らなければならないのです(エフェソ61020節)。

 

4・主イエスは、七十二人の者たちを派遣した時、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(ルカによる福音書103節)と言われました。しかし同時に、七十二人が喜んで帰ってきて、御名による悪霊の屈服を報告した時のことです。主イエスは、堕落の発端を明らかにされ、「わたしは、サタン(堕落した天使)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」と言い、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書101820節)と,弟子たちの慢心を戒め、ほんとうの喜びは天にあることを告げました。

 

結・今、わたしたちは、何をもって喜んでいるでしょうか。主イエスと聖霊の御業と、その実現を信じるとき、わたしたちは、この世のただ中に来られ、悪魔の誘惑を忍ばれ、十字架の上で、その支配を砕かれた、主イエスをおいてほかに、喜びとする方はいないことを知るべきです。そして、世の喜びのはかなさを認め、「小羊の命の書に名を書いてある者だけが入れる」(ヨハネの黙示録2127節)ほんとうの天国を望み、主の救いを、心から常に喜びましょう。

 

 

 

 

2018107日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

(なお、常に)太陽の下、更にわたし(コへレト)は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。                          コへレトの言葉316

 

しかし、わたし(イエス)は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

                             マタイによる福音書544

 

 

 

序・最近、コンプライアンス(法的遵守)という言葉をよく耳にします。しかし、果たして、悪いことや、会社や企業にとってイメージダウンになることをしなければいいのでしょうか?

 

1・コへレトは、「裁きの座に悪が、正義の座に悪がある」のを見た、と言います。これは、正義の後退です。本来ならば、公正の支配すべき座に、悪があるならば、わたしたちは、どのようにして、その支配を正すことができるのでしょうか。

 

 主なる神は、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。」との声を聞いたとき、「わたしは降って行き、彼らの行動が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(創世記1820節)と言われました。

 

 じっさいに、それを確かめるために、三人の使い(天使とキリスト)が、ソドムの方へ向います。しかし、主なる神は、「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するため」(創世記1819節)と言われます。

 

2・じつに、アブラハムの執り成しの祈りは、「なお、主の御前に進み出て」(創世記1822節)「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者と悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記182325節)と祈ります。

 

 主は、このアブラハムの祈りに答えられます。五十人の正しい者のために、同様に、四十五人、四十人、三十人、二十人の正しい者のために、そして、十人しかいなくとも、と人数の条件を厳しくしながら、請い願う、アブラハムに「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と。

 

 しかし、その結果は、「主のもとから硫黄の火」が降り、ソドムの町の全住民の滅亡を見ることになりまいた(創世記1924節)。果たして、十人も正しい者がいなかった(数が問題だった)のでしょうか? このとき、御使いの呼びかけに答えて、アブラハムのおいのロトと妻、二人の娘の四人が逃げますが、ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱となってしまいました(創世記192629節)。ロトとその娘の三人が生き残ったのです。「ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(創世記1929節)のです。ここに、主に従って正義を行う一つの模範があります。

 

3・このアブラハムを父として誇っていた時代、人々は、宗教的指導者の決まり事を守ることで事なきを得ようとしていました。しかし、主イエスは、それが御心に反する悪であることを知っておられ、代表的な教えについて、一つ一つ、御心を明らかにされます。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いては成らない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記1918節)との御言葉は、「隣人を愛し、敵を憎め」との決まり文句に置き換えられていました。しかし、主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。それが、神の正義に適う祈りであるからです。

 

結・神の正義は、ノアの洪水、またソドムの滅亡のように、人々の滅びをもって裁かれるならば、罪に堕落した人間にその不当さを訴えることのできる人は一人もいません。神に背くことは、神の敵になること(ヤコブ44節)、肉の思いに従うことは神に敵対することです(ローマ87節)。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさら」(ローマ510節)であるからこそ、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ831節)との主の救いに生きるとき、十字架と復活の主イエスの執り成しを信じて祈るように導かれます。神の愛から決して離れないとの約束の中で(ローマ839節)。

 

 

 

 

2018930日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと。

 

追いやられたものを、神は尋ね求められる。           コへレトの言葉315

 

神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。

 

                             ヘブライ人への手紙617

 

序・9月に再び強い台風接近。「今までに経験したことのないほどの事」が、「一度経験した事」に。しかも、つい先日の出来事。わたしたちの経験を規準して物事を考えるときの、過去・現在・将来を表す言葉のあり方に気づかされます。

 

1・コへレトは、「今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと」と言います。造り主なる神の御前に、現在を問うとき、それは、過去にあったこと、将来起こることも、もうあったことと言います。果たして、そう言い切れる理由はどこにあるのでしょうか。それは、「追いやられたものを、神は尋ね求められる」からです。この「追いやられたもの」とは、「過ぎ去ったもの」「消え去ったもの」とも訳されます。

 

 つまり、神は、常に過ぎ去ったものを呼び戻し、同じことを幾度も生じさせる御方である、と理解することができます。あるいは、ある人は、コへレトが過去における事実について明確であったとはありそうにない、と考え、あくまでも、現在、今を生きることにおいて、全能の神が、生きて働いておられること、そして、神がなしておられる業は永遠に続くこと、それが、世代を通して、人間によって変えられることない、不変の業であることを表明していると解釈します。

 

 「初めに、神は天地を創造された」(創世記11節)の御言葉は、事実、今ある存在のすべてが、過去の御業において定められたものであることを物語ります。それは、神の創造と摂理という過去なくして、わたしたちの存在があり得ないことの、一つの霊的実証そのものです。

 

2・ヘブライ人への手紙は、「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」(12節)と告げます。それは、ただ、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には,御子によってわたしたちに語られました」(11節)との、神の御心の啓示者でいます、御子(イエス・キリスト)において実証されていることです。それは、人の理屈や経験によることではなく、ただ、神の啓示を聖霊の導きの内に信じるように導かれた者たちに理解される、神の真実、そのものです。

 

 このことを、6章では、「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。」(1315節)と言い、「そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。」「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」(1617節)と明言されます。

 

 それは、じつに、神自ら、過去を、ご自身の契約とその誓いにおいて、呼び起こされる、変わることのない真実を、今を生きる教会と人々に伝える言葉です。その目的と理由とは、「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄(契約と誓い)によって力強く励まされるため」(18節)です。

 

結・十字架と復活の主イエス・キリストは、今、福音書でその生涯が物語られています。それは、洗礼者ヨハネにおいて洗礼を受けられた時、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マタイ317節)という、神の啓示の声そのものにおいて、すでに成し遂げられた贖いの御業が、今、聖霊の恵みによって、わたしたちの心が開かれることにおいて、証されているものです。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く(神との会見)もの」(ヘブライ619節)です。神の家族を忠実に治めておられる大祭司イエス・キリストの執り成しにおいて、神の契約と誓約の真実が、わたしたちの心に明らかにされ、わたしたちの今を呼び起こしてくださる時を待ち望みつつ、共に、主キリストに仕えていきましょう。

 

 

2018923日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

神は人間が神を畏れ敬うように定められた。           コへレトの言葉314

 

主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にありのままに知られています。…             コリントの信徒への手紙二511

 

 

 

序・今日は秋分の日:聖書は、「大きな光を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。夜をつかさどる方月と星を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編13679節)と、神への讃美がささげられます。

 

1・コへレトは、「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」(西村俊昭訳:神がなさるのだ。それで人は神の前に恐れる)と言います。それは、「わたしは知っている」との経験的認識の最後に告白される、神の御業です。人間には、この永遠、不変の神の業に「付け加えることも除くこともできない」のですが、あらゆる迷信、偶像は、神の秩序に、人間の方式を加えて、それを真実のように伝えようとします。まことの預言者エレミヤも、「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される。人は皆、愚かで知識に達し得ない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞(ぎまん)にすぎず 霊を持っていない。」(エレミヤ書1014節)と言います。「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る」(マラキ320節)のです。この「義の太陽」こそ、神の御子、主イエス・キリストです。

 

 2・わたしたちが、天地を造られ、出エジプトの御業をなし、御子イエス・キリストを遣わし、受肉:降誕と十字架と復活・昇天と聖霊降臨の御業をなされた、三位一体の神を信じるためには何が不可欠なことでしょうか。その一つの入り口と言えるのが、「神への恐れ」です。

 

 箴言2024節には、「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか」と問いかけられています。じつは、この「定める」という言葉は、もともと「賜物」と訳される言葉です。「人の一歩一歩は、主の賜物」なのです。このことを、わたしたちが信じるとき、深い闇の中で、先が見えない不安、失望、落胆する時にも、わたしたちの存在の源でいます、“主”御自身を、ほんとうの意味で、「恐れ」「畏怖し」、「深い畏れからの礼拝をささげる」ように、「一歩一歩」、日々の生活と将来を備えられていきます。

 

3・使徒パウロは、「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます」とコリント教会に自分の使命を伝えます。この「主に対する畏れを知っている」とは、主を畏怖する個人的感覚をもっていることを働きの理由にしようとしているのではなく、キリストのゆえに、「新しい契約に仕える」「文字ではなく霊に仕える」のに十分なもの(資格:新共同訳)とされたと言うように、具体的な働き:つとめを指しています(コリント第二346節)。

 

 つまり、パウロは、「“闇から光が輝き出よ”と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(46節)と告白するように、「主に対する畏れ」とは、神のなさったこと、なさっていること、これから、なしてくださることへの「恐れ」「畏怖」です。それは、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みか(朽ちることのない復活体)を上に着たい」(54節)と切望するときにも、「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。」(55節)と告白します。そして、キリストの内に「新しく創造された者」(517節)として、“神との和解”をいただき、“神の勝利”に連なる者とされた光栄をもって、キリストの代務者として「神と和解させていただきなさい」(520節)と命じるのです。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(510節)ことこそ、御国を仰ぎ見つつ、古き人を脱ぎ捨て、今を懸命かつ誠実に生き抜く力として、「主に対する畏れを知っている」との信仰(キリスト理解と神認識)が生きて働いているのです。

 

結・「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」との献身的告白は、主に贖われた者たち(教会)に示された愛の結果です。それは、キリストの贖罪死の完全さを覚え、それに何も付加せず、ただ一つの福音をそのままに生きることこそ、わたしたちの人生のみならず、すべての人が罪から救われるべき理由であり、神を畏れる者たちの霊的奉仕(ミニストリー)です。

 

 

 

 

 

2018916日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 (そうだ、同時に)わたしは(決定的に)知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない(=不可能)、と。      コへレトの言葉314

 

 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。                      ヘブライ人への手紙1315

 

 

 

序・コへレトは、神が定められた時の中で、人の労苦(それは、日常的な務め、であり、仕事)の意味を問いながら、「神のなさる業」(310節)に心の目を向けます。それは、何かと気ぜわしい世の中において、おそらく、最も忘れられていることでしょう。

 

 詩編10219節で、「後の世代のためにこのことを書き記さねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」と告白されるように、今、わたしたちは、聖書において啓示されている神を礼拝する恵みを継承する責務を負っています。それは、神の御前に果たすべき、一つの「務め」「義務」です。

 

1・コへレトは、神の恵みを享受して生きる秘訣を、日常的に神を知ること、実感することにあると言っています。それは、言わば、生活のすべてが、神をあがめるにふさわしいものであるという意味のみならず、神から与えられた恵みと賜物を、そのままに「受け入れる」ことから始まります。

 

 使徒ヤコブは、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。」(ヤコブの手紙12節)と命じました。つまり、ヤコブは、キリストのゆえの、試練を喜びと思い、信仰の試練が忍耐を生む、という日常生活を続け、それを、実感していたのです。

 

2・それでは、その信仰はだれのものでしょうか。それは、ヤコブに与えられたものでありながら、「神のなさる業」行為、働き(Act)においてこそ、その真実が確かめられるものです。

 

 ですから、同じ手紙の中で、ヤコブはこう言っています。「良い贈り物、完全な賜物は、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰はありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、言わば造られたものの初穂とするためです。」(ヤコブの手紙11718節)

 

 このように、わたしたちにとって、神のなさる業(恵みの御業:義)を知るとは、コへレト同様に、それが、永遠に続く不変のものであり、完全なものであることを認めることです。そのために不可欠なことは、「主の霊の働き」によって「主の方に向き直る」ことであり、心の「覆い」を取り去られることです(コリントの信徒への手紙二31819節)。

 

3・ヘブライ人への手紙において、神は、はじめから、正しく告白され、礼拝される方として指し示されながら、神の備えられた歴史における礼拝の根拠である、贖いの犠牲において、明らかにされています。それは、旧約時代において、幕屋と神殿においてささげられた、動物犠牲であり、新約の時代においては、「門の外」ではずかしめを受けられた、御子イエス・キリストの完全にして唯一の犠牲です。今、わたしたちは、御子の血によって罪赦され、贖われた者として、礼拝者とされていることを感謝をもって、受け入れ、それを実感するとき、神のなされる業を大いなるものとしてほめたたえる“霊的自由”を喜び始めるのです。それは、どのような試練においても、決して妨げられることないものであり、「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」(フィリピ217節)と告白される、霊的献身そのものです。

 

それは、わたしたちの献身が贖いのための功績になることでも、神に報われるための手段になることでもなく、キリストの完全な贖いの目的に「付け加えることも除くことも」できないことに一致することをひたすらに目指すものです。「宿営の外に出る」(ヘブライ1313節)とは、ユダヤ教から離れ、キリストのもとに来ることを意味します。今の時代も、あらゆる世俗主義、異教主義から離れ、キリストのみを、御国への道・真理・命として礼拝することそのものです。そこに、あいまいな意味を含ませたり、別の要素を持ち込む余地は全くないのです。

 

結・「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマの信徒への手紙1136節)

 

 

 

 

 

201899日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

(わたしは知った)人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。                           コへレトの言葉313

 

 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また[すなわち]、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 ヨハネによる福音書410

 

 

 

序・コへレトは、神の定められた生涯において、日毎に、神が与えてくださっている恵みと賜物を享受すること、自分に与えられた分として喜ぶことにすることにあると言います。それは、人生の幸福感をそのままに実感するために不可欠なことです。

 

1・コへレトは、人の労苦・務め・仕事・業務・職業も、神から与えられたものとして受け入れています。聖書においては、「造る」という動詞は、神にのみ用いますが、ここで、「与える」という動詞も、神にのみ用いられています。つまり、神が、わたしたちに、仕事を与えてくださるからこそ、わたしたちは、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。」(コロサイの信徒への手紙322節、エフェソの信徒への手紙66節も同様)と命じられているように、労苦・仕事を、神からの賜物として信じるとき、わたしたちは、神への礼拝:奉仕の心で、務めるものであることを認めるのです。

 

2・コへレトは、「わたしは知った」「わたしは知っている」と繰り返し、飲食し、労苦すること、それによって、「満足すること」「楽しみを得ること」は、すべて、神から与えられたもの、賜物であると言います。それは、まったく日常的に神を享受しつつ生きるための秘訣といえる言葉です。本日配布の月報に「神学生の霊的生活(1)」という神学講演を掲載しています。そこで、一人の神学教授、ウォーフィールドは、こう神学生に問いかけています。「時折耳にするのは、10分間ひざまずくことは、10時間の神学書を読むことよりも、真に、深淵で、効果のある神知識をもたらすというものです。ひざまずくことの上にある、神学書を10時間読むことにまさることとは、適切な応答とは、何でしょうか!? 神学書を開くとき、なぜ、神から方向転換するのでしょうか。あるいは、あなたが神に向き直るために神学書から方向転換しなければならないと感じるべきでしょうか?」 これは、神学生のみならず、すべての人にあてはめて考えることのできる言葉でしょう。日常的は働きや生活の営みにおいて、「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」(ヤコブの手紙124節)のように、御言葉の光を絶えず実感することが必要です。

 

3・イエス・キリストは、サマリヤの女の日常生活のただ中に来てくだいました。それは、まったく、予期しない仕方でなされた、伝道そのものです。しかし、その仕方も、まったく、日常会話のようでありながら、その実、神の賜物によらなけば、罪人は、真実に、神に向き直ることのできないことを明らかにするものです。主イエスは、「もしあなたが、神の賜物を知っており」と言い、続けて、すなわち、「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていならば」と言います。つまり、イエス・キリストを知るとは、神の賜物を知ることであり、それは、神を享受して生きることそのものなのです。そして、イエス・キリストは、「この(井戸)水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ41314節)と約束されます。じつに、この「水」とは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ73738節)との主の約束のとおり、復活の主イエス・キリストを証しし、その命を、罪に死んだ者たちの内に与えてくださる、聖霊を、霊において飢え渇く者たちに、キリストは与えてくださるのです(イザヤ123節、3215節、443節、エゼキエル3929節、ヨエル315節(口語訳22832節)。じつに、聖霊に満たされなければ、誰一人として、日常的に、神を享受することはできないのです。

 

結・「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」(ローマ89節)のなら、皆、キリストの霊を「神の賜物」として知るのみです。神の賜物とキリストを知ることは一つです。聖霊による礼拝も、神の賜物です。いつも、この主の賜物を、真に祈り求めましょう。

 

 

 

 

 

 

201892日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と

 

                              コへレトの言葉312

 

その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。・・・』

 

                              使徒言行録1325

 

 

 

序・「幸福」という言葉を聞いて、どのようなイメージを抱くでしょうか。手元の国語辞典では、「現在(に至るま)での自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持をいだくことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)。」(新明解国語辞典)とあります。ここには、幸福とは、一つのこの上ない充足感を覚えることであって、人間にとって、主観的なものであることを伺うことができます。

 

 コへレトも、「わたしは知った」(私は知っている、悟った、実感した)といい、「人間にとって最も幸福」をここに確認しています。それは、「喜び楽しんで一生を送ること」と。これまで繰り返して、神が定められた時の中で、「労苦」「務め」について問いかけてきたコへレトは、一度、「労苦」という言葉を忘れるかのように、「幸福」に心のまなざしを向けています。

 

1・山上の説教において、八福の教えとして知られる冒頭の言葉は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)です。この「幸い」とは、この上ないすばらしい喜びがある、という強い言葉です。一体、それは、どこから来るのかと言えば、「天の国はその人たちのもの」と呼ばれているように、神から来るのであって、人からではないのです。じつは、このコへレトの言葉も、一見、幸福主義、快楽主義に通じるような言葉に見えますが、神の定められた労苦を問う背景と文脈において、「幸福」という言葉は、もともと、「良いもの」という言葉です。ですから、字句どおりに訳せば、「私は知っている、人間にとって彼の生涯の間楽しんで幸いに暮らす以外に「良い(幸いな)こと」はない。」(西村俊昭訳)と訳せます。ここで、問われ、確かめられていることは、コへレトの実感として、人間にとっても最も幸いなことは、良いことは、生涯の間楽しんで幸いに暮らすこと、と言うのです。

 

2・すでに、人生の時を克明に言い表したコへレトにとって、決して、この幸福が日常的なことであったとは思っていないでしょう。すでに2章で、さまざまなものを手に入れたコへレトが、なおその空しさを告白しながら、「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする」と言ったように、幸福感を求める時にも、大切なことは、神の与えてくださる良きものを求めることであって、それは、神の創造の秩序に適うことである、というこでです(創世記131節)。

 

 ここで、やはり、問題になることは、人間の罪です。神のこのうえ無い、良きものを汚し、見えなくし、喜ぶことのできない罪とその本性と言うことができます。

 

3・パウロは、第一回伝道旅行においてユダヤ教会堂で、イスラエルの民を導かれた神とその歴史、つまり、出エジプトと、約束の地カナンでの450年、サムエルの時代に王が立てられたことを思い起こします。そして、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださった」(使徒言行録1323節)と伝えます。そして、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたヨハネが、「その生涯を終えようとするとき」、人々が、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(ルカによる福音書315節)ときに、あるいは、「エリヤ」「あの預言者」か、と問われたときに(ヨハネによる福音書121節)、それを完全否定して、キリストを指し示したことを証しします。それは、当時の人々のある閉塞感を打ち破る御方として期待された預言者ではなく、むしろ、ヨハネ自身のしもべとしての在り方をそのまま伝えるものです。

 

結・聖書の幸福感は、神の定められた歴史の中でこそ求められるものであり、ただ救い主キリストを知ることにおいて、神を享受(エンジョイ)することに導かれるものです。「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編236節)との告白を共にする真実の幸福こそ、主キリストの救いの恵みです。

 

 

 

 

2018826日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。                  コリントの信徒への手紙一311

 

 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。                  イザヤ書536

 

 

 

序・主の教会の枝の一つであるわたしたち男山教会は、伝道開始50周年記念事業を今、計画しています。最初の礼拝(1972.2.20)が守られて以来、主イエスの憐れみと導きの中に、ふさわしい御言葉の奉仕者が遣わされ、毎主日の礼拝が守られてきたことを感謝したいと思います。

 

 使徒パウロは、「わたしは神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)と言います。この「熟練した」は、「知恵に満ちた」「賢く」と言う言葉で、主イエス御自身、山上の説教において、岩を土台として家を建てた者の賢さを教えられたのと同じです。

 

1・教会の唯一の土台は、イエス・キリストであり、それは、ただお一人の救い主、イエス・キリストとその教えを土台とするということです。それ以外の土台はないのです。

 

 主の僕、パウロにとって、キリストを宣べ伝えるとは、「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(130節)ことを伝えることです。じつに、キリストが「神の知恵」となられたとは、歴史上の偉人としてイエスを認めることでも、キリスト教の教祖イエスを認めることでもなく、罪人の唯一の救い主として認めることです。永遠の神の御子が人となられ、十字架の死に至る道を歩んでくださり、三日目に復活されたこと、そして、主イエスが教えられたすべての教えを、道・真理・命として受け入れることです。

 

 「わたしたちの義」「わたしたちの聖」「わたしたちの贖い」となられた、キリストを受け入れることのいて、わたしたちは、神に義と認められ、聖霊の恵みによって日々聖化の道を歩み、罪の力から解放され、救いの道を共に歩ませていただくのです。

 

 パウロはなお、「ねたみや争いが絶えない」(33節)コリント教会のために祈りつつ、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくだったのは神です」(37節)と言い、唯一の土台であるキリストとその教えの上に建てられる教会形成に注意するように促します。そうです。教会はこの意味で、どの教会も同じではなく、あなたとわたし、お互いの兄弟姉妹あっての、この教会であることを忘れてはなりません。

 

2・「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされる」(31213節)のです。それは、人の目には、一見、多様な教会形成を暗示しているとも言えます。神の御顔の前にある者として、わたしたちは、キリストが来られる日を清い畏れの中で待ち望みつつ、今の教会の在り方を祈り求める必要があります。幕屋礼拝と神殿建設において、主の命じられたことに従い、民のささげものをもってその完成を見ました。今、キリストの贖いのゆえに、わたしたち自身が「神の神殿」とされ、主の恵みの御業における教会建設に“霊的(敬虔)に”共に仕える者とされています(出エジプト記35章、列王記上6章)。

 

 男山教会の教会建設は、その歴史,御言葉が語られ、聞かれることにおいて、どのような教会でしょうか。そして、それは、神の目に適っていることでしょうか。もし、わたしたちが、神の目に適って、健全に、教会の土台が、イエス・キリストに据えられ、互いに愛し合いつつ、主の栄光をあらわしていると言えるとすれば、本当に、感謝なことだと思います。

 

結・イザヤ書53章において、主イエス・キリストは、苦難の僕として預言されています。それは、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」と言われます。しかも、「羊の群れ」は、「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」のです。主イエス・キリストの御心に適う記念事業を求めるとき、人の目ではなく、神の御目と御心を求めなればなりません。そして、主が、この男山教会を、御心に適う道に連れ戻してくださり、記念事業において、主の恵みの御業が果たされますように。

 

 

 

2018819日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」

 

                             使徒言行録103637

 

「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」            イザヤ書122

 

 

 

序・今日は、神の恵みによる平和とその実現について、聖霊の賜物である“愛と平和”が異邦人も与えられることを使徒ペトロが確信した証言をとおして学びたいと思います。

 

1・コルネリウスは、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に施しをし、絶えず神に祈っていた」(使徒言行録101節)と証しされる、ローマ帝国の「イタリア隊」の百卒長であり、異邦人でありながら、聖書の神と御言葉を求めていた、言わばユダヤ教信者でした(後に、福音を聞き、洗礼を受け、キリスト者に)。天使の命じるとおりに、コルネリウスはヤッファに召し使い二人の部下の兵士一人の三人の使いを送り、ペトロはカイサリアのコルネリウスの家に導かれます。コルネリウスは、四日前に天使から命じられたことをペトロに伝え、「よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(使徒言行録1033節)と伝えます。

 

 この時、ペトロは、コルネリウスの使いが来た日に見た、神に示された不思議な幻(使徒言行録101016節)の真理を悟り、「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言い、自分が、かつて、異邦人を汚れた者としてさげすみ、律法の禁じるとおりに、交際せず、訪問しない、古い教えに従う者であったことを告白します。

 

2・このことは、神を畏れ、正しいことを行うことが、人の功績、善行とし、それを条件に神が救われると言おうとしているのではなく、むしろ、神と人間の唯一の仲介者イエスの名において受けいられることです。ですから、ペトロは、自分たちが、じっさいに福音を伝え、証する生活と旅を共にした、「ナザレのイエスのこと」を伝えるのです。この方こそ、神が、「聖霊と力によって」「油注がれた者(メシア:キリスト)」となさった方であると。

 

 さらには、イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活と、弟子たちに現れたことを、「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」(1042節)と伝えます(テサロニケの信徒への手紙一416節)。そして、「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています」(1043節)と、神の業と神の救いのご計画(御心)の実現を、聞く者たちに物語ります。

 

 ペトロが、「これらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」(1044節)、のです。そして、異邦人が、異言を話し、神を賛美しているのを聞いて驚き、イエス・キリストの名による洗礼を命じ、数日滞在するのです(104648節)。

 

3・わたしたちは、ここに、ユダヤ人と異邦人の間にあった、強固な距たりを、キリストの福音が打ち砕かれたのを見ます。それは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ214節)「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」(エフェソ218節)との、御言葉のとおりです。

 

 じつに、イエス・キリストがすべての人の主であり、唯一の救い主であるからこそ、わたしたちの祈りは、聖霊において一つであると信じることができます。そして、すべての人のために執り成して祈ることにおいて、わたしたちは、神の言葉を語り、聞く機会(礼拝の時)を、聖霊の働き機会と信じて祈り続けるのです。

 

結・「その日には、あなたは言うであろう。」と預言者イザヤは、わたしたちが、主なる神が、怒りを翻し、わたしたちが慰められる日が来ることを預言しました。今日、「主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」と告白し、「喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」者とされたことを感謝し、御名を讃美しましょう。そして、キリストの御名を呼びつつ、そして、聖霊の内住を信じ、キリストの十字架と復活における“罪の赦しと平和”を求めて祈りつつ、すべての人に分け隔てすることなく、福音の真理を証しましょう。

 

 

 

 

2018812日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 

                               コへレトの言葉311

 

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。             ローマの信徒への手紙830

 

 

 

序・「人間の義(正義)の尺度(基準、規準)をもって、神の義(正義)を測る者は、よこしまをなす」(アウグスティヌス)との言葉のとおりに、聖書的な事柄だけでなく、今日の社会においても、物事の多くの判断は、人のものさし(尺度、基準、基準)によります。

 

1・コへレトは、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」31節)と言い、わたしたちが、神が定められた時の中に身を置くものであることを自覚しつつ、人は何のために生きるのか、働くのか、という根源的問いに対して、神の定められた時において、時宜に適って労苦するためであり、そのためにこそ、神は人間に「永遠を思う心」、じつに、“神(キリスト)と共に生き続ける持続的思い”を心の中に与えられた、という一つの小さな、しかし、確かな、中間的結論を与えられます。

 

 そして、さらに、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言います。それは、自分に与えられた小さな結論に対する譲歩であり、恐れとも言えます。この節は、「人は神が始めから終わりまでなす(なされる)ことを見い出すことのないままに」(西村訳)とも訳されます。人間から見れば、神のなさることには隠されたものであり、神から見れば、人間の知るところは、限定的なものなのです。

 

2・使徒パウロは、しばしば、その書簡(手紙)において、神のなさったことについて、「知らないのですか」と問いかけます。ローマ書では、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」(ローマ63節)を問い、コリント書では、「自分は何か知っていると思う人がいたら、知れねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(コリント一83節)、と言い、偶像の神々と呼ばれるものがいても、「わたしたちにとては、唯一の神、父である神がおあれ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(コリント一86節)と告白し、神とキリストのなさっていること(御業)を、あるがままに伝えます。

 

3・イエス・キリストは、「神の国(恵みの支配、摂理、備え)」について、このように教えてくださいまいした。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ42629節)と。

 

今、わたしたちは、イエス・キリストが一度来られ、十字架の死に引き渡され、死者の中から三日目に復活し、天に上げられたことを、聖書に書いてあるとおりに、知っている(知ることができる」、恵みの日、救いの時、収穫の時に生かされています。使徒パウロは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ826節)と言いました。それは、キリストに贖われてなおも、うめき、苦しむものであることを物語っています。わたしたちも、祈る時に、とくに、多くの人がいるところでの祈りに、とまどいを覚えないでしょうか。あるいは、一人静まって祈るときにも、なかなか言葉が口から出てこない経験はないでしょうか。しかし、信仰によって救われ、キリストの内に希望を抱くとき、わたしたちのうめきの言葉も、確実に、神に聞かれていると信じることができます。

 

結・神の栄光がその姿を完全にあらわすとき、わたしたちは、キリストに似た者に完全に変えられるのです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(テモテ二213節)「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。」(イザヤ書4028節)との御言葉によって祈り、神の召しと栄光を真に求めましょう。

 

 

 

 

201885日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 

                                コへレトの言葉3章11節

 

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 コリントの信徒への手紙二46

 

 

 

序・「人間は考える葦である」(パスカル)と言われるほどに、弱いものでありながら、物事を考えることは、本来、神のかたちにかたどって造られた人間の普遍的な在り方です。コへレトも、神の定められた時の中に、人間のあらゆる労苦が置かれていることを思いつつ、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」と言います。

 

1・この「神はすべてを・・造り」とは、天地創造の御業のことではなく、ここでは、むしろ、人間の労苦のすべてのことを指しています。つまり、人間の労苦を命じられた神は、そのすべての労苦を、ご自身の定められた時に適って、生じ(プロデュース)させておられるのです。

 

 この御言葉は、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)と訳されることもありますが、時宜に適った「美しさ」とは、必ずしもいつも受け入れやすく、称賛に値するということではなく、むしろ、神の備えられれた細やかな配慮を見るときに、人間が不断の緩慢さをいましめられて、我に返るように、神の摂理の業をほめたたえるように、真実を知ることを教えるものです(マタイによる福音書6章26、28節「空の鳥」「野の花」)。

 

 まことの預言者エレミヤは、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレミヤ書179節)と問います。それは、人間の堕落ゆえの心の闇、罪と悲惨は、ただ、神によってしか癒されないことを物語っています。

 

 コへレトも、ここで、ただ、神の時宜に適う配慮を覚えているだけでなく、神が、「永遠を思う心を人に与える」と言っています。この「永遠を思う心」とは、今の生きている世界に嫌気がさして、永遠の世界をイメージするような逃避的な思いではなく、むしろ、「常に持続するものへの願望」のことであり、「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます」(詩編8編4節)と告白するように、創造主なる神の御手を被造世界に認めることです。

 

2・使徒パウロは、自身の弱さを、神に造られた「土の器」という言葉に込めました。そして、「いつもイエスの死を体にまとっている」(10節)と言い、自分が死ぬべき体を負うものであり、しかも、絶えず、様々な危険、試練、迫害、困難の中に置かれながら、それは、そのただ中で、「イエスの命がこの体に現れるため」であり、だからこそ、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(89節)と告白するのです。

 

 じつに、主イエス・キリストの死と復活の命は、パウロ自身の体においても、明らかにされているのです。それは、パウロの信仰のゆえというよりも、キリストが、パウロにおいて、働き、その御力を、「土の器」(7節)の中に、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」という「宝」(たから)を与えておられたからです(67節)。

 

 パウロは、神の恵みと召しによって、この福音の光という「宝」を「土の器」の中にいたただき、イエスの死と命にあずかりつつ、『わたしは信じた。それで、わたしは語った』(ギリシャ語訳聖書の詩編から引用)と言います(18節)。それは、まぎれもなく、パウロの信仰も、福音宣教も、ただ、復活の主と共にあるものであり、だからこそ、パウロにとって、将来の復活(を信じること、伝えること)は、今を生かす力そのものです。

 

結・「この世の神が、信じようとはしないこの(滅びの道をたどる)人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないように」(4節)しているのなら、なおさら、わたしたちは、目を覚まして、主の福音の光を「土の器」にいただく者として、主の栄光をあらわすことに尽くさなければなりません。「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるため」(15節)に。

 

 

 

 

 

2018729日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。    コへレトの言葉310

 

わたし(イエス・キリスト)は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。     マタイによる福音書1129

 

 

 

序・「人は何のために働くのか」という人生における大切な問いは、毎日の労苦の繰り返すことが問題なのではなく、言わば、究極の生き甲斐である、人生の主な、最高の目的を問うことです。コへレトは、神の定められた「時」の中に身を置くことにおいて、生命のかけがえのないこと、不可抗力なこと、感情の変化、他者への態度、継続的祈り、真実を問うこと、を通して、わたしたちが負うべき重荷が、神の人に与える労苦、務めとして受けとめられています。

 

1・創世記3章には、全人類が堕落したとき、神がアダムに「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(17節)と言われたことが書かれています。それは、堕落ゆえに、人の労苦は、エデンの園での祝福に満ちた喜びから、糧を得るためのものにいやしめられました。

 

コへレトの「務め」とは奇しくも、「いやしくされる」「苦しめられること」(語意)です。

 

 この意味で、聖書の労働(召命)観は、第一に、罪ゆえにいやしめられたものであり、食べるための苦しみを避けて通ることができないこと、第二に、それは、アブラハム、サラ、モーセ、アロン、ザカリヤ、エリサベツたちが、そうであったように、老齢になっても、主が与えてくださる召しに応えることであって、それは、ただ、主なる神の憐れみによって、とキリストの贖いのゆえに、神の栄光をあらわすにふさわしいものに変えられること、です。

 

 今、わたしたちは、神が与えてくださっている労苦を、罪ゆえにいやしめられたものでありながら、キリストの贖いのゆえに感謝し、創造の完成に向かって喜ぶことができるように、祈りつつ、わたしたちの労苦の主、キリストと共に、励んでいくことが大切なのです。

 

2・イエス・キリストは、救われてなおも続く労苦を、ご自身の軛を負うことであり、キリストに学ぶことであると言いました。そして、そのために、キリストの柔和と謙遜に学ぶことが必要であることを教えてくださいました。

 

 そして、その前に、イエス・キリストは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町々を名指しし、悔い改めない町を叱責されます。それは、言わば、人の労苦が集められた町でしたが、その労苦からは、宗教的理由で、病人や罪人が除外されたもので、なお、いやしめられた労苦からの解放を求めるものでした。「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」との叱責は、人の高慢と驕りと頑なさが、人の名誉を誇りとしている貪欲:偶像礼拝であり、労苦において罪を重ねる在り方を物語っています。

 

 だからこそ、主イエスの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」との招きの言葉は、罪ゆえの疲れ、罪ゆえの重荷を負う者たちへと招きと言えます。そうです。すべての罪人への招きこそ、この主イエスの招きの言葉なのです。

 

3・主イエスの労苦は、ただ、「わたしたちの病」「わたしたちの痛み」を負うものでした。そして、主イエスは、その最も根源的な理由が、全人類の堕落にあること、そして、すべての人が、ご自身もとに来なければ救われないことを、最もよく知っておられます。そのために、必要なことは、ただ、自分の罪を認め、罪を悔い改めて、キリストのもとに来ることのみです。

 

 そして、悔い改めとは、すべての人に最も必要な、そうしなければ、神の御前に生き得ない、恵みの労苦、務め、召命であり、謙遜と柔和の道そのものなのです。「柔和な人たちは、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)と約束されたとおりに、キリストのもとに来て、柔和と謙遜の道を生きる人こそ、一度、堕落ゆえに呪われた大地を、キリストの憐れみのゆえに、贖われた大地として慈しみ、神の祝福を受け継ぐ者とされる人です。

 

結・イエス・キリストは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と約束してくださいました。同じ質量の物でも、担い方一つで重みが変わるように、キリストと共に重荷を担うとき、わたしたちは、神に与えられた労苦を、感謝し、喜ぶ者に変えられます。御言葉に聞く労苦、祈る労苦は、いずれも、聖霊の御力によるものです。日々、主の安息の中で、十字架の死から三日目に復活され、昇天された、キリストと共に、謙遜と柔和の道を労苦としましょう。

 

 

 

2018722日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

人が労苦してみたところで何になろう。            コへレトの言葉3章9節

 

キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。                ローマの信徒への手紙8章10

 

 

 

序・コへレトは、数々の時をここに挙げながら、人の労苦を再び問いかけています。「生まれる時、死ぬ時」「植える時、植えたものを抜く時」「殺す時、癒す時」「破壊する時、建てる時」等々において、しばしば、人の労苦は中断をよぎなくされ、あるいは、働きがいを失ったりします。労苦はしばしば、人の罪、あるいは、強大な権力のもとで、抹殺され、抑圧され、その自由を奪われています。主の召命(calling)において働きに仕えていると言えるとすれば、それは、本当に光栄なこと、感謝なことでしょう。

 

1・一つ思い起こせば、兄弟にエジプトに売られたヨセフが大臣になったことは、主の備えられた導き(摂理)でした。主がヨセフと共におられたので、飢饉の時にも豊作の時に備えた大臣であったことを知らない王がエジプトを治め、イスラエルの人々は、奴隷の苦役を課せられます(出エジプト記1章)。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」(出エジプト記2章23~25節)のです。

 

2・主イエスは、神と罪人の間の契約の仲保者となられた御方として、契約と祝福を「ぶどう園」にたとえて、「ぶどう園のたとえ話」(マタイによる福音書20章1~16節)において、人々の救いを、主人である神のもとで働く「労働」にたとえられました。ぶどう園で働く労働者を求められ一日、その日の朝から一日中働いた者にも、夕方から一時間しか働かなかった者にも、ぶどう園の主人が約束したとおりに、つまり、神の契約の祝福に従って、一デナリオンずつ賃金を払われたのです。主イエスは、このぶどう園のたとえ話をもって、ご自身の贖われた救いは、アブラハム、イサク、ヤコブのみならず、ダビデ、エレミヤを経て、ついには、ご自身の贖いの御業において、恵みの契約の条件が果たされたことによって、神の恵みによる救いの益(すべての祝福)は、どのような時代、歴史、生涯においても、人の労苦において収穫される、神の恵みであることを明らかにされました。

 

 そして肝心なことは、この労苦の益は、ただ、キリストの贖われた祝福を収穫として与えられるものであって、人の労苦が生み出したものではないのです。人間は、どれほど英知を尽くしても、決して、罪人を救い得る手立てを自分で作り出すことはできません。そして、最終的な人間の知恵の目標とも言える、死を克服することは、決して、人間自身の手で解決できないのです。

 

3・使徒パウロは、“内在する罪の問題”を根本から問いかえすとき、自問自答して哲学的な解答を得たのではなく、神の契約と祝福の中に、キリストの内に命が隠されていることを信じて、「霊によって体の仕業を絶つ」時、わたしたちは「生きます」(ローマの信徒への手紙8章13節)。そして、「キリストと共に苦しみなら、共にその栄光をも受ける」(ローマ8章17節)と言いました。それは、聖霊の恵みと御力によってのみ、罪と肉の問題は解決し、贖われた人間の労苦が、キリストの命において、その輝きを取り戻すものであることが明らかにされています。コロサイの信徒への手紙では、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3章3節)「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1章24節)と言うほどに、パウロは、キリスト・イエスの僕として、キリストの苦難と身をひとつにするようにしながら、キリストの体である教会に尽くすのです。主の奴隷であることは、パウロにとって、“主の労苦”そのものでした。

 

結・キリスト者にとって、キリストと共に生きることは、御国の進展と教会建設をされることに仕えることです。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84編11節)「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」(詩篇88編14節)と祈りましょう。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントの信徒への手紙二6章2節)と、主の恵みと救いの益を、日々の労苦において、絶えず思い起こましょう。

 

 

 

 

 

2018715日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時             コへレトの言葉38

 

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。            マタイによる福音書54445

 

 

 

序・主イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコによる福音書114節)。今、わたしたちは、主イエス・キリストが一度来られた時代を、「終わりの日」(ヨハネ639節)に向かって、共に、歩んでいます。

 

 そして、この「終わりの日」までの間、主イエスは、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコによる福音書138節)と言われます。

 

1・コへレトは、「愛する時」と「憎む時」、「戦いの時」と「平和の時」の対を、一連の「時」を表す言葉の最後に語ります。それは、第一の掟「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコによる福音書122931節)と命じられるように、主の御業によって生き、生かされている者たちにとって、最も根源的で、本質的な、心と態度の在り方を表すものです。

 

 人間の罪と悲惨を問いかけるとき、この主の掟の完全に適うことができるか、と問われて、「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」と、ハイデルベルク信仰問答(問5)は答えます。それほどまでに、アダムにおいて堕落し、原罪を負っていることは、深刻な霊的不能そのものなのです。 

 

2・この意味で、人間は、生まれながら、その良心においても、葛藤を生じやすく、また、素直に良いことに励み続けることが困難な性質を負っていることに気づかされます。事実、「あなたがたは、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブライ人への手紙124節)と警告されるほどに、罪への抵抗は、真剣に向き合うとき、人の手に負えないものでありながら、「主の鍛錬」おいて、「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」(ヘブライ人への手紙1211節)のです。

 

 コへレトの言葉には、「義」という言葉が出てきませんが、その眼差しは、絶えず、神の主権的な御業、「恵みの御業」(新共同訳)つまり、「神の義」に向けられています。詩編においては、絶えず、あらゆる試練、迫害、戦いの中で、「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き まっすぐにあなたの道を歩ませてください」(詩編5編9節、参照:詩編31編2節、詩編367,11節)と祈り求められ、「恵みの御業を民の末に告げ知らせる」(詩編2232節)と、主の恵みを受け継ぐ使命を告白します。今、わたしたちは、主の復活に、神の恵みの御業を確かに視るものとされています。

 

 十字架の死から三日目に復活された、一週の初めの日、主イエスは、ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家に閉じこもっていた弟子たちに「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書2021節)と言われ、聖霊の息をもって、世への派遣を命じられました。そして、一連の説教の終わりにおいても、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書1633節)と約束されました。

 

結・山上の説教において、主イエスが命じられる“愛敵の教え”も、命じられているとは、「祈りなさい」です。そこで問われていることは、わたしたちの心であり、罪であり、霊的鍛錬であることに気づかされます。その目的は、「あなたがたの天の父の子となるため」です。そして、主イエスにおいて思い起こされることも、ただ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ」る、神の恵みの御業、神の義、です。それは、全く、神の造られた「太陽の下」の人の労苦を問う、コへレトの眼差しと同じでありながら、ご自身のあがないのゆえに、神に敵対する者から、神の恵みに生きる子とされた者への約束です。主の完全を望み、目指し、祈りつつ、歩みましょう。(フィリピ312節、467節)

 

 

 

 

201878日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

裂く時、縫う時 黙する時、語る時              コへレトの言葉37

 

「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。                 マタイによる福音書2662

 

 

 

序・先週の大雨の始まりの頃、岐阜の長良川の上流で、わたしの息子の高校の同窓生でもありました、一人の青年が、遊び心で少し増水した川に入って命を落としました。とても残念で悲しい出来事でした。九州から駆けつけたお父様は、岩で頭を打って血だらけになった、(親元を離れて岐阜の専門学校学んでいた)息子の頭をなでながら、怒りの思いが込み上げて、息子に向かって叱りつけたと言います。お母様も、息子の死を受け入れること自体が大変なことでした。しかし、この青年は島根にあるキリスト教主義の高校を卒業し、岐阜の専門学校の近くのキリスト教会に導かれ、この青年を送る会が、その教会でもたれました。御言葉に導かれつつ、送る青年たちの思いを汲み、様式も服装も次第も自由な形式でもたれつつも、主の御言葉(ルカによる福音書2346節)によって、祈りと賛美と慰めをわかち合いつつあります。

 

1・コへレトの言う「裂く時」とは、「胸が張り裂けるばかりの悲しみ」と形容されるように、喪に服する時のように、激しく強い感情を抱く時を意味します。次々と苦難が襲ったヨブは、「立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して」(ヨブ記1章21節)主の摂理を信じ、御名を讃美します。「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(ヨブ122節)のです。

 

 そして、「裂く時」対になっている「縫う時」とは、その裂かれた服を再び新しく縫い直すことを意味すると言われます。人々にキリストの到来を告げ、心からの悔い改めを命じた、洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物として」いました(マタイによる福音書34節)。それは、旧約の時代に主から遣わされた預言者エリヤと思い起こされる、謙遜な姿でした(列王記下1章8節)。

 

2・もう一つの対になっている、「黙する時、語る時」は、主の召しに応えてそうするならば、御心に適うことですが、そうしないならば、不義であり、罪です。預言者エレミヤは、「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレミヤ書209節)と告白しました。

 

 ヤコブの手紙において、「多くの人が教師になってはなりません」といましめられる理由は、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すから」であり、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」と言われるほでに、言葉を正しく用いることは、非常に困難なことに気づかされます(ヤコブ312節)。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコブの手紙3810節)しかし、「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙310節)と命じられるように、わたしたちは、絶えず、まことの神から出る「上からの知恵」(ヤコブの手紙317節)を求める必要があります。

 

3・十字架への道を歩まれた、主イエス・キリストは、最高法院(サンヘドリン)と呼ばれた議会で裁判に立たれました。そこで、主イエスは、不利な証言に対しては黙し続けながら、なおも、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と尋問する大祭司に対して、ご自身のことを預言して告げられました。しかしその言葉を聞いて、大祭司は、服を裂きながら、「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」と問いかけ、「人々は死刑にすべきだ」と答え、「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り」侮辱するのです(マタイによる福音書276267節)。

 

結・「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せに」なられた」主イエスを模範とし、「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」に「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って」くださった、大牧者います主イエスによって、罪によって裂けた、心と魂の傷、その深い悲しみと痛みをいやされた恵みと慰めを感謝し、共に、祈りましょう(ペトロの手紙一32325節)。

 

 

 

201871日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

求める時、失う時 保つ時、放つ時              コへレトの言葉3章6

 

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいないのです。               使徒言行録27章22節

 

 

 

序・主イエス・キリストは、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。」(マタイによる福音書77節)と命じられました。

 

 それは、どのような境遇、身分、経験、等によらない、すべての人に命じられている緊急の命令です。あえて、主は、「求め」それを「続けること」に集中します。それは、それほどまでに、求めるとは、神との交わりを失った人間(罪人)にとって、呼び起こされるべき大切な霊的熱心であり、命、霊的飢え渇き、であることを示唆しています。

 

1・コへレトは、「求める(探す)時」と「失う(破壊する、消失する)時」を対とし、「保つ(見守る、守る)時」と「放つ(捨てる)時」を対とします。じつに、わたしたちは、満ちあふれる恵みを与えられていながら、そのかけがえのないことに気にとめていないことがあります。いつのまにか失っているものは、無自覚、無意識を理由に済ませられないことがあるのです(全人類の堕落とそれゆえの原罪と現行罪とその悲惨さ、罪の結果としての死)。

 

 わたしたちが、「保つ時」に維持されるものは、御言葉・律法・信仰を守るという、霊的清さです。この霊的清さは、主イエスが警告された、ファリサイ派の律法主義のように、自己義認のゆえに、人を見下すものではなく、かえって、柔和で謙遜な性質を帯びています。ですから、「放つ時」に捨てるものは、自分であり、そこで負うものは自分の十字架です。なぜなら、主イエス・キリストは、神の独り子としての栄光に固執されないで、わたしたちと同じようになってくださり、その試練を負ってくださったからです。

 

2・使徒パウロは、ローマ皇帝に上訴したために、囚人としてローマ行きの船に乗りましたが、そこで、「エウラキロン」と呼ばれる島の上から吹き下ろす暴風(北東からの突風)に遭い、「二百七十六人」(37節)が乗る大きな船は遭難しそうになります。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうえせようとしていた」(使徒言行録2720節)のです。パウロはこの時、「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。」(21節)と冬の嵐の時期の出航を制止しようとしたことを思い出しつつ、「元気を出しなさい」と励ますのです。それは、パウロが人々に証しするように、「わたしが仕え、礼拝している神からの天使」(23節)の声を聞き、「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」(24節)ことを確信していたからでした。そして、パウロの告げた言葉のとおりに、船は、当初の予定であったクレタ島のフェニクス島ではなく、ずっと目的地のローマに近い、マルタ島まで、暴風に流されて、一気に進みことになるのです。

 

 ひどい暴風雨の中で、人々がしたことは、「積み荷」「船具(ふなぐ)」を海に投げ捨てることでした。また、ようやく陸地が近づいてくると夜の間に、上陸用の「小舟」で船から逃げようとした者もいました(30節)。しかし、パウロは、14日もの間、不安のうちに全く何も食べずに過ごしてきた人々に、「だから、どうぞ何か食べてください」(34節)と勧め、「一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」のです(35節)。「そこで、一同も元気づいて食事をした」(36節)のでした。

 

結・わたしたちにとって、命の危険とは、出生時にも、子供から大人へ(自我と分別と責任)成長する時にも、病む時、老いる時にも、遭遇するものです。また、戦争、地震、災害、事故、等に遭遇することもあります。しかし、そこで、わたしたちは、キリストの命を求めます。十字架の死から三日目に復活され、天に上げられて主こそ、祈りの主であり、御自身の霊(聖霊)による執り成し手です。今日、聖餐の交わりにあずかる時、わたしたちが、人々とすべての危険も共にする、神の御手にある“運命・契約・霊的共同体“として生きましょう。

 

 

 

2018624日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時  

 

                             コへレトの言葉35

 

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。                  ルカによる福音書1520

 

 

 

 先日は、強い地震を経験し、なお、余震の緊張と不安の中にありながら、今日、礼拝が守られたことを感謝いたします。被災された方、なお、避難所におられる方の上に、主の慰めと平安と御守りを祈りつつ、御言葉に導かれたいと願います。

 

 コへレトは、この3章において、色々な「時」を対にして挙げながら、わたしたちに、神の備えられた時を思い起こすように導きます。「石を放つ時」と「石を集める時」の対は、ほかの対になった言葉とは異なり、「石」という一つの物についての人間の態度がここに明らかにされています。

 

 わたしたちは、地震などで物が壊れると、多くの場合、それを廃棄すると思います。しかし、それを何かの記念として取っておくこともできる訳です。つまり、石に対して捨てる方向なのか、集める方向なのか、ということです。

 

 石を放つ時とは、ダビデがペリシテ人のゴリアトの額を「石投げ紐(ひも)を使って飛ばし」て撃った(サムエル上1749節)ことを思い起こします。あるいは、イエス・キリストが、「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ87節)と言われ、姦通の現場で捕らえられた女を告発した人々を裁かれたことがありました。また、ステファノは「人々が石を投げつけている間」、主に自分の霊をゆだねつつ、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りをささげた時(使徒言行録7章5960節)、迫害の中でも、祈る時、また主のもとに眠る時でした。

 

 また、石を集める時とは、ノア、アブラム(ハム)、ヨシュア、サムエル、サウルが、「主に祭壇を築いた」ことを認めること(石からほかの材料に変わったかもしれませんが)ができます(創世記820節、127節、830節、サムエル上717節、1435節)。また、それと正反対に、イスラエルの王アハブは、「バアルの祭壇を築」(列王記上1632節)き、ユダの王マナセは、「主の神殿の中に・・異教の祭壇を築いた」(列王記下214節)のです。このように、「石」をどのように扱うか、は、事実、その時々の、人の心、信仰、態度の表現そのものです。(広島:平和の君教会 鳩の周りに宣教師たちの持ち寄った石のモニュメント(謝罪と和解)を掲示 宣教100年、原爆投下40年を記念して)

 

 「抱擁」とは、本来、真実の愛(愛情)、とその交わりを表現するものです。ウェストミンスター小教理問答問31には、聖霊の恵みによって、わたしたちが、イエス・キリストを「受け入れる」と訳される言葉は、もともと「抱擁する」(embrace)という言葉です。

 

 抱擁の時、抱擁を遠ざける時とは、必ずしも、愛とその反対という意味ではなく、むしろ、その表に出る態度の在り方を意味します。パウロは、信者同士の夫婦関係について、祈りに専心するために、自制と分別のある在り方を理解するように促しています(コリントの信徒への手紙一7章1~7節)。ヨセフと兄弟たちの抱擁の時、それは、罪の赦しとともに、神の備えられた和解の時でした(創世記451415節)。イスカリオテのユダは、「接吻で人の子(イエス)を裏切る」罪を犯しました(ルカ2248節)。

 

 放蕩息子の帰郷は、父(親)の抱擁において、神の真実の愛を表しています。それは、罪の赦しが、人の罪責感と告白にまさって、神自ら待ち望んでおられることであり、深い憐れみによるものであることを意味します。息子の言葉を待つまでもなく、父(親)は、「まだ遠く離れていたのに」「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。それは、「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかった」息子の帰還でした。神の愛は、この父の愛そのものです。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」(ペトロ一39節)忍耐しておられる主を覚えつつ、わたしたちも、皆共に、真実の悔い改めと、祈りと、献身を、日々、時々に、表していきましょう。

 

 

 

 

 

2018617日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時  

 

                             コへレトの言葉35

 

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。                  ルカによる福音書1520

 

 

 

 先日は、強い地震を経験し、なお、余震の緊張と不安の中にありながら、今日、礼拝が守られたことを感謝いたします。被災された方、なお、避難所におられる方の上に、主の慰めと平安と御守りを祈りつつ、御言葉に導かれたいと願います。

 

 コへレトは、この3章において、色々な「時」を対にして挙げながら、わたしたちに、神の備えられた時を思い起こすように導きます。「石を放つ時」と「石を集める時」の対は、ほかの対になった言葉とは異なり、「石」という一つの物についての人間の態度がここに明らかにされています。

 

 わたしたちは、地震などで物が壊れると、多くの場合、それを廃棄すると思います。しかし、それを何かの記念として取っておくこともできる訳です。つまり、石に対して捨てる方向なのか、集める方向なのか、ということです。

 

 石を放つ時とは、ダビデがペリシテ人のゴリアトの額を「石投げ紐(ひも)を使って飛ばし」て撃った(サムエル上1749節)ことを思い起こします。あるいは、イエス・キリストが、「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ87節)と言われ、姦通の現場で捕らえられた女を告発した人々を裁かれたことがありました。また、ステファノは「人々が石を投げつけている間」、主に自分の霊をゆだねつつ、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りをささげた時(使徒言行録7章5960節)、迫害の中でも、祈る時、また主のもとに眠る時でした。

 

 また、石を集める時とは、ノア、アブラム(ハム)、ヨシュア、サムエル、サウルが、「主に祭壇を築いた」ことを認めること(石からほかの材料に変わったかもしれませんが)ができます(創世記820節、127節、830節、サムエル上717節、1435節)。また、それと正反対に、イスラエルの王アハブは、「バアルの祭壇を築」(列王記上1632節)き、ユダの王マナセは、「主の神殿の中に・・異教の祭壇を築いた」(列王記下214節)のです。このように、「石」をどのように扱うか、は、事実、その時々の、人の心、信仰、態度の表現そのものです。(広島:平和の君教会 鳩の周りに宣教師たちの持ち寄った石のモニュメント(謝罪と和解)を掲示 宣教100年、原爆投下40年を記念して)

 

 「抱擁」とは、本来、真実の愛(愛情)、とその交わりを表現するものです。ウェストミンスター小教理問答問31には、聖霊の恵みによって、わたしたちが、イエス・キリストを「受け入れる」と訳される言葉は、もともと「抱擁する」(embrace)という言葉です。

 

 抱擁の時、抱擁を遠ざける時とは、必ずしも、愛とその反対という意味ではなく、むしろ、その表に出る態度の在り方を意味します。パウロは、信者同士の夫婦関係について、祈りに専心するために、自制と分別のある在り方を理解するように促しています(コリントの信徒への手紙一7章1~7節)。ヨセフと兄弟たちの抱擁の時、それは、罪の赦しとともに、神の備えられた和解の時でした(創世記451415節)。イスカリオテのユダは、「接吻で人の子(イエス)を裏切る」罪を犯しました(ルカ2248節)。

 

 放蕩息子の帰郷は、父(親)の抱擁において、神の真実の愛を表しています。それは、罪の赦しが、人の罪責感と告白にまさって、神自ら待ち望んでおられることであり、深い憐れみによるものであることを意味します。息子の言葉を待つまでもなく、父(親)は、「まだ遠く離れていたのに」「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。それは、「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかった」息子の帰還でした。神の愛は、この父の愛そのものです。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」(ペトロ一39節)忍耐しておられる主を覚えつつ、わたしたちも、皆共に、真実の悔い改めと、祈りと、献身を、日々、時々に、表していきましょう。

 

 

 

2018617日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

ルカによる福音書14章24~35節

 

 

 

弟子の条件

 

 25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

 ◆塩気のなくなった塩

 

34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

 

2018610日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

泣く時、笑う時 嘆き時、躍る時              コへレトの言葉34

 

悲しんでいるようで、常に喜び、貧しい(物乞いの:新共同訳聖書 初版)ようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

                         コリントの信徒への手紙二610

 

序・コへレトは、人生のむなしさを問いつつ、その手がかりを、神の造られた日の下での労苦の意味を求めます。それは、コへレト自身、おそらくは、ソロモンという一人の王として、およそ考えられる富を満喫しているようにみえながら、その実、その心は、絶えず、民を代表しつつ、「わたしは生きることをいとう」(2章17節)と告白するほどに、神への感謝と喜びを口にすることから、一見すると、遠いように思えます。

 

 しかしながら、コへレトは、人生の時を、二つの対照的な事柄をもって、神が備えられた時の中で、じつに、様々な時を与えられた一つ一つの時に共感する言葉をもって、集中的に、しかし、簡潔に、言い表します。

 

1・泣く時、それは、愛する者との死別とその共感する時であり、病苦、不安、恐れの感情を相まって、わたしたちが当然に抱く感情です。それは、笑う時、それは、そのような悲しみの感情がいやされる時であり、また、希望を抱くときであり、それに共感する思いです。

 

 ヨセフは、兄弟と再会した時、兄弟たちの殺意が、主の良き備えに転じられた時であり、喜びの時は、深い悔悛と憐れみを覚える時でした。「弟ベンジャミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たちに皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(創世記451415節)また、70年間のバビロンの地での捕囚から帰還した民は、「主の神殿の基礎を据えた」時、「主を賛美し、感謝し」ました。「人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。」、悲喜こもごもなものでした。

 

2・わたしたちが、十字架の死から三日目に復活された、イエスを主キリストと信じる信仰へと導かれることは、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人(自己義認・自己目的に生きる、しかし、霊的に死んでいる人)についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書157節)のです。

 

 また、主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、喜びに変わる」「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びを奪い去る者はいない。」(ヨハネによる福音書1620節、22節)と、神の備えられた時において、悲しみの時が、喜びの時に変わること、また、その喜びは、復活の主イエス・キリストとまみえることにおいて与えられる、永遠の喜びであることを約束されました。

 

また、主イエスは、「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか」と問いかけられ、「笛を吹いたのに、躍ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」との、広場に座って互いに呼びかける子供たちの、人々の感情からかけ離れた子供のつぶやきに、罪を罪として悲しみ、救いと救いとして喜ぶ感情から遠い世をうれいます(ルカ7章3132節)。

 

3・使徒パウロは、目に見える衰えと対比して「内なる人」の霊的更新を日々覚えつつ(コリント第二416節)、「天から与えられる住みか」(コリント第二5章4節)という復活体を求めつつ、キリストの裁き地上の人生をゆだねつつ、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント第二59節)と希求しました。そして、「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のため」「正気であるなら、それはあなたがたのため」(コリント第二513節)と言い、自身の感情の表裏に偽りのないことを証しします。

 

結・「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ1215節)との、主にある慰めを、すべての人と共にしていきましょう。そして、天の御国と主の再臨を待ち望みましょう。

 

 

 

20186月3日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時          コへレトの言葉3章3

 

ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラ戸に送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。                     ルカによる福音書23章11,12節 

 

 

 

序・聖霊の御業の中に、主イエス・キリストは、ご自身の体なる教会を、ご自身の御言葉の上に建て上げておられます(マタイ16章18節)。そして、教会のみならず、主イエス・キリストは、世界のすべての人々の主であり、あらゆる領域(社会の基礎としての家庭・為政者:国家・地域社会・文化形成:社会的営み、等々)の主でおられる御方です。

 

1・コへレトは、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3章1節)と言い、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」(3章2節)があることを具体的に、一つの対照・対としてあげています。

 

 「殺す時」の対は、「癒す時」であり、「破壊する時」の対は、「建てる時」です。ここで、コへレトは、人間の罪の行為を先に置いていることに注意したいと思います。アダムが堕落して以来、最初の殺人がカインによってなされ、罪は、憎悪と殺人において明らかになりました。十戒の第六戒は、神が命の主であることを重んじ、その命を奪うことの罪の重さを問いかけています。キリストの福音:真の、正統的、キリスト教は、じつに、罪からの救いは、キリストの言葉(福音)を聞いて信じることにおいて、神の裁きとしての死の宣告から解放されて、永遠のいのちを得ることを明らかにしています。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」のです(ヨハネによる福音書5章25節)。

 

2・この人の罪は、殺人の根である心における憎悪・侮辱・妬み、殺人行動にとどまらず、社会的・国家的な関係における、激しい経済競争、民族的争いや侵略戦争、に及びます。まことの預言者エレミヤは、「見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ書1章10節)との主の召命を与え、異教国バビ