1月6日礼拝説教

2019年1月16日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 人間の霊(生命の息)は上に昇り、動物の霊(生命の息)は地の下に降ると誰が言えよう。
                               コへレトの言葉3章21節
 キリストは死を滅ぼし、福音(神の力)を通して不滅の命を現してくださいました。
                              テモテへの手紙二1章10節

序・わたしたちは、吐く息の白さを目にして何を感じるでしょうか。止揚学園の福井生先生は、そこに寒さよりも、命とぬくもりを感じると言われます。それは、一つの真理を言い得ていると思います。なぜなら、神は、ご自身のかたちにかたどって造られた人間に、自然的命のみならず、霊の命を与えてくださる御方であるからです。「聖霊を受けよ」と命じられる、復活の主イエス・キリストは、今日も、わたしたちに、聖霊の息をもって、新しい命の息吹を与えてくださる、生けるまことの神、命の主です。
1・コへレトは、人間の生命の息も、動物の生命の息も、言わば、自然的死においては、結局のところ、同じではないか、という普遍的・根源的な思いを抱きます(コへレトの言葉3章18~20節)。詩編143編でも、「敵はわたしの魂に追い迫り わたしの命を地に踏みにじり とこしえの死者と共に 闇に閉ざされた国に住まわせようとします。わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫けます。」(詩編143編3,4節)とあるように、絶望的思いの中で、到底、死の先に希望を見い出すことのできない告白を、聖書の中に認めることができます。
 このコへレトの言葉を、「神の子たちの中にでなく、太陽の下、この世にいる者たちの中に、死後魂が生きることを断言できる一人の人を示してください、と言っている」(ルター)か、あるいは、「何時も流行している野蛮な愚かさ」(カルヴァン)と見なすかは、実は,紙一重です。つまり、肝心なことは、「誰が言えよう」と問う、疑問にあると理解することができます。生きること、死ぬことについて、人間は、意外と投げやりに考えがちです。欺瞞的で、自暴自棄になってしまう理由がここにあります。
 しかし、コへレトが、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3章11節)と人間の限界を認めているように、ここでも、これ以上深入りしないで、真剣な探求的信仰を認めることで、ある意味十分です。わたしたちは、犬や猫に、人間のような将来に悲観するような思い患いを知ることができないように、人間はむしろ、無垢になって、神に与えられた命の尊さ、生命の息のかけがえのない恵み、を認めることそのものが先決なのです。
2・キリスト教信仰は、この意味で、観念的でも、抽象的でもなく、全く歴史的です。それは、わたしたちの不信仰に対しても、まったく、神は、歴史的に寄り添ってくださることを意味します。不明を明瞭にしてくださる御方こそ、真実の神なのです。「不滅の命を現してくださった」御方こそ、キリスト、とパウロは言います。そうです。実に、「最初の人アダムは命のある生き物となった」と(自然的命について、聖書に)書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血(自然的命)は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるもの(自然的死)が朽ちないもの(永遠的命)を受け継ぐことはできません。」(コリントの信徒への手紙第一15章45~50節)
結・自然的死から発生した諸々の宗教観では解決できない、人間の罪と死と滅びの真の解決は、ただ、死者の中から復活された、キリストにあります。キリストのもとに来る人に与えられた「力と愛と思慮分別の霊」に心を留め、「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」との主の命令に応えつつ、どのような患難、試練、不安の中でも、福音によって新たな力を与えられて、主の業に共に励みましょう。

 

 

2019年1月6日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 「わたしの恵みはあなたに十分である。…」     コリントの信徒への手紙二12章9節
 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。                  エゼキエル書11章19節

 序・主の年、2019年1月第一主日公同礼拝の朝を迎えました。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。」哀歌3章22~24節との神と礼拝への招きの言葉のとおりに、日毎に、新たに、主の慈しみを待ち望む信仰を共にしていきたいと願います。
 1・今年の男山教会の年間標語は、「弱さを担い合う教会」です。わたしたちに与えられた信仰は、はじめから、キリストと共にある信仰であり、目に見える兄弟姉妹を、お互いに、キリストの体の部分として与えられたものです。そこで、一つの祈りの課題は、わたしたちが、お互いの「弱さ」を思いやるという、霊的態度です。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」(ヘブライ5章2節)のとおりに、大祭司イエス・キリストは、わたしたちのために、貧しく、弱さを身に負ってくだいました。「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。」(コリント第二10章1節)と使徒パウロも、キリストにある思いやりを優しさをもって伝えています。
 2・主イエスは、三度、「とげ」と呼ぶ、何らかの「弱さ」がなければ、と願ったパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました。「わたしの」とは、恵みは、神のもの、キリストのもの、であることを強調する言葉です。人間は、与えられている恵みに感謝することを忘れがちですが、そのことが最も試されるのが「祈り」です。祈願はしても、忍耐して、御心を求め、実現を待つことに疲れやすく、神に真心から祈りをささげることの乏しい、罪人の祈りを、主イエスは良く知っておられます。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」との、主の励ましは、力に力、強さに強さ、誇りに誇りを追求し、無力・弱さを恥じ、あらゆる失望・落胆・諦めからの、真の救いです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と、パウロは言い、完全無欠を求める祈りから、キリストの力にゆだね、とげのある自分を受け入れるのです。
 わたしたちもしばしば、不足を数えて、それがなければと思いがちではないでしょうか。しかし、大切なことは、恵みは、「主のもの」であり、祈りは、「主が」聞き、応えてくださるのです。すべてに先行するのは、十字架と復活の主御自身の憐れみであり、優しさなのです。
 3・新年礼拝で、主イエスとニコデモの対話から、人は、新しく生まれなければならない、との神の真実を、ニコデモが理解できなかったことを知りました(ヨハネ3章)。祈りにおいて、わたしたちの一つの誘惑は、神の真実から遠くある自分を認めることをしないままに、祈っている自分を神に近いと勘違いすることです。むしろ、キリストは、神から遠く、祈ることのできない罪人をあるがままに愛しておられるのです。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18章13節)との祈りこそ、わたしたちの日々の祈りでなければならないのです。それは、ただ、聖霊の恵みによって、ささげられる祈りであり、頭ごなしに、自分は罪人だからダメなのだ、と自己憐憫に陥ったり、自責の念をもって悔い改めとすることではありません。むしろ、罪人の身代わりに十字架に死んでくださった、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、そこに、キリストの力が内に宿っていることを、聖霊によって喜ぶことなのです。
 結・預言者エゼキエルは、この聖霊による新生を、固い石の心が変えられ、柔らかい肉の心を与えられることと告げました。聖霊によって、新生し、幼子のような者、思いやりをもつ者に、神の国(恵みの支配)は近いのです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(エフェソ6章10節)との、罪人を救う、真に力ある方、主に信頼していきましょう。

 

201911日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 イエスは答えて言われた。「はっきり(アーメン、アーメン)言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」       ヨハネによる福音書33

 

 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。     詩編3419

 

 

 

序・昨年11月下旬、「上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門」(講談社)が出版されました。ソーシャル・・ネットワークキング・サービス(SNS)の一つ、ツィーター(Twitter)に毎日、キリスト教と聖書について少しでも興味をもってもらおうと、二人の兄弟が短いコメントを発信を続けたところ、6万人のフォロワーが与えられたことが、きっかけとなって、出版されたものです。ちなみに、渡辺俊彦牧師は、多摩少年院の法務教官を経て、牧師としての召しに応えられた方です。渡辺牧師によれば、「教会が人々をとらえる言葉からだんだん遠ざかっていたところを、彼らは伝えているんだと思う。こういうのは賛否両論あるものだし、ずれてはいけないところを彼らはわかっていると思うので、任せています」とのこと。じっさい、様々な、色々な批判等が、クリスチャンあるか如何かを問わず、受けながらも、教会の新来会者は、とても増えたそうです。

 

1・ニコデモは、少なくとも、イエスに興味をもちました。それは、イエスがなさったしるしを見てです。この時、主イエスは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と、ニコデモには、思いもかけないことを伝えられました。止揚学園の福井生先生の講演をとおして教えられたことの一つは、幼子のように、福音を信じることです(洗礼歌「神さまの子どもになりました」)。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ1125節)「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ2116節)と主イエスは言われました。

 

 しかし、「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のこと(ような在り方)を棄てた」(コリント第一1311節)と言うように、使徒パウロは、完全な愛にはほどとおい自分を認めながら、異言ができる?者たちに、だれにでも分かる、通じる、愛の言葉による伝道を諭しつつ教えます。

 

2・新しく生まれる、という言葉そのものは、大人であれば、理解できる言葉です。しかし、その真意を理解することは難しいかもしれません。ニコデモも、その表面的な理解はできましたが、主イエスが言われることの真意を理解することができませんでした。主イエス御自身「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証を受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と言わました。そして、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と言い、ご自身が、唯一の、贖罪の犠牲として、十字架の上に上げられることをあらかじめ伝えられました。

 

 それでは、わたしたちは、どのようにして、主イエスの言われる言葉の真意を理解することができるのでしょうか。鍵は、やはり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」との福音にあります。なぜなら、これは、将来のことでなく、今のことであり、「滅び」とは、神の怒りと呪いを身に負うゆえの、無意味と無価値、諦め、に早い、罪人の在り方を指しています。滅びからの救いとは、じつに、罪の赦し、神の怒りと呪いを免じられること、意味と価値の一大転換です。そこには、神が近くおられることの信仰とそれゆえの、不断の祈りがあり続けます。

 

 「信仰のただしいまなざしは、キリストを目ざし、かれにおいて愛にみちた神の心を見つめることである。そして、その愛の唯一の保証として、キリストの死に立脚することが、確固としたよりどころなのである。」(カルヴァン) 

 

結・主イエスは、十字架の上で、「骨の一本も損なわれることない」完全な犠牲をささげてくださいました。それは、あらゆる困難、試練、迫害の中でも、ご自身の教会を固く主に結びつけて守ってくださる証でもあります。主が、「打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」、わたしたちの友でいますことを信じつつ、日々、祈り心を新たにしましょう。                       

 

 

 

 

2018年12月30日  主日公同礼拝  説教  聖書箇所
 
  シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。…」            ルカによる福音書2章28、29節
  わたしがあなたに与える命令は平和  あなたを支配するものは恵みの業。
  (わたしは平和をあなたの管理者とし  正義をあなたの監督者とする。)イザヤ書60章17節
 
序・主の降誕節の恵みは、クリスマスの行事をもって終わるものではなく、むしろ、始まりで
す。シメオンが、幼子イエスを腕に抱き、神をほめたたえた言葉から、わたしたちは、本当の
意味で、クリスマスの恵みと光、主の十字架、受難を知ることへと導かれます。
  第一に、それは、主の律法に従って、神殿に初子をささげることにおいてです。第二に、聖
霊が宿っていたシメオンにおいて、伝え聞いた、御言葉をもって、御子の受難がここに証しさ
れ、新たに、宣べ伝えられることです。第三に、その預言の言葉において、マリヤ自身も、御
子イエス・キリストの受難同様に、その心を刺し貫かれる、という苦しみを受けるということ
です。しかし、それは、マリヤの心の痛み、深い悲しみに留まらず、多くの人々において、十
字架につけられイエスを、「主」と告白することへと導かれる、一つの道がここに備えられる
ということです。
1.レビ記12章には、「出産についての規定」があり、そこでは、割礼とともに、「男児もしく
は女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献
げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司
に渡す。」(レビ記12章6節)とあり、この規定のとおりに、産婦マリヤの清めのために、割礼
を施された、幼子イエスを抱いて、ヨセフとマリヤは神殿に来るのです。
  しかし、むしろ、福音書の引用は、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエ
ルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
(出エジプト記13章2節)です。つまり、産婦マリヤよりも、初子イエスに、神の真理を見るか
らです。ここに、一つの、聖霊に満たされ、キリストを待ち臨んでいた、シメオンの信仰の備
えとの一致を見ることになります。
2.罪の中に生まれたのでない、主イエス御自身は、何ら、罪を清めるための儀式を必要とされ
ない御方です。しかし、割礼を施され、また、産婦マリヤとともに、神殿にささげられたの
は、ただ、わたしたちの身代わりとなって、十字架の死を負うためです。「キリストは、わた
したちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木
にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3章13節)
シメオンは、ここで、キュリオスの主ではなく、デスポテースの主をもって、神を呼んでいま
す。それは、主に結ばれた自分という結びつきを強調する言葉です。また、御言葉も、ロゴス
の言葉ではなく、レーマの言葉を用いています。それは、神がわたしに告げてくだった言葉を
う意味です。つまり、シメオンは、長い間、ずーっと、神から聞いた約束の言葉を待ち続け、
ついに、ここに、御子イエスとの会見をもって、本当の平安の中に、罪の縄目から解放され、
永遠の憩いの中に入った、と叫んでいるのです。幼子イエスの父母の驚きは、そのためです。
3.マリヤの非常な心痛を預言する言葉には、十字架のことばが、人々の中にある心を明るみ
に出すことが示されています。そして、それは、シメオンが「この目であなたの救いを見た」
と証しするとおりに、「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光、あ
なたの民イスラエルの誉れ」として、すべての人々に、十字架の死から三日目に復活され、天
に上げられた、生けるキリストが宣べ伝えられつつ、教会建設と霊的成長において、聖霊の実
が豊かに結ばれているのです。
結・「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を
礼拝し、 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし
火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するか
らである。」(ヨハネの黙示録22章3~5節)と、預言されるとおりに、今、わたしたちは、こ
の地上の教会において、永遠の神の御国を望み、、日々の歩みを、主と固く結ばれたしもべと
してささげます。年の終わりに、主のものとされた「慰め」を感謝し、共に、祈りましょう。

 

 

 

2018年12月23日  主日公同礼拝  説教  聖書箇所
 
  天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体(すべての民)に与えられる大きな喜びを告
げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシ
ア(キリスト)である。」                              ルカによる福音書2章10,11節
  ひとり(一人)のみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとり(一人)の男の子がわた
したちに与えられた。権威(主権)が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある
神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。                              イザヤ書9章5節
 
序・止揚学園の方々が描くイエスさまは、いつも、飼い葉桶のイエスさまのまわりにニコニコ
と皆があつまっている絵です。それは、わたしたちに福音の原点を明らかにしています。イエ
スさまのまわりに集まって、本当の喜びをともにすることこそ、闇と罪と死の支配から、光と
正義と命の支配の中に移されることなのです。その喜びの中に入れられることこそ、救いで
す。
1・羊飼いたちに伝えられた天使の知らせは、羊飼いたちの怯えを覆って余り有る、大いなる
喜びの知らせでした。野宿しながら夜通し羊の群れの番をしなければならなかった、一つの理
由は、傷のない小羊を神殿にささげるためでした。しかし、当時の宗教は形ばかりのものと
なっていましたが、少なくとも、この羊飼いたちの信仰は純真でした。
  身分の格差、国籍の違い、肌の色による差別、等々、人間社会において、たとえ人の目に隠
されていることにしても、すべては、神の目には明らかです。すべての人に与えられる大きな
喜びこそ、罪人の身代わりとして十字架の死において、罪のない神の小羊となられるためにお
生まれになった、イエス・キリストの降誕・誕生です。
2・ここで、御子の誕生は、神の恵みの契約における、救いの歴史の中で成し遂げられた事で
あったことが、三つの言葉で明らかにされています。第一は、「ダビデの町」、第二は、「あ
なたがたのための救い主」、第三は、「主メシア(キリスト)」です。
  ①「ダビデの町」とは、サムエルによって油注がれたダビデ(サムエル上16章)が、サウル
の死後、ユダとイスラエルの王として立てられ、神殿と王宮が据えられた、エルサレムを多く
の人が想像し、当時の人々もそうであったと思います。しかし、ここでは、ベツレヘムのこと
です。それは、ダビデの出生地(サムエル上17章12章)であり、また、預言者ミカの告げた、
救い主誕生の地こそ、「ベツレヘム」なのです(ミカ書5章1節、マタイ2章6節)。
  ②「あなたがたのために生まれた、救い主」とは、わたしたちの身代わりとなって、十字架
の死において贖罪の死を成し遂げて下さる、本当の救い主であることが告げられています。御
子を信じるとは、とりわけ、このわたしのために与えられた救い主であることを信じることで
す。
  ③「この方こそ、今日、この日に生まれた、主キリスト」です。この「主」という御名は、
当時、皇帝に冠せられた呼称でもありました。しかし、天使の告げた、大きな喜びは、今日、
この日にお生まれになった、イエスこそ、「主キリスト」、真の神、真の王、と宣言します。
3・この真の神、真の王である御方が、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」とは、人にお
いては、十字架同様に、つまずきとなり得ることでしょうか?  じつに、「主は豊かであった
のに、あなたがた(わたしたち)のために貧しくなられた」御方であり、「それは、主の貧し
さによって、あなたがた(わたしたち)が豊かになるためであった」のです(コリント第二8章
9節、フィリピ2章6~8節)。この豊かさこそ、神との和解、罪の赦しです。
結・「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との天の大軍
の讃美こそ、大いなる喜びの知らせに応答する礼拝、讃美、告白そのもの、真のクリスマスの
調べです。羊飼いたちが、突然の知らせと讃美に心を打たれ、即座に、ベツレヘムのイエスの
もとに駆けつけたように、わたしたちも、ためらうことなく、主のもとに来ましょう。そのと
き、「主は人々からは見捨てられたのですが、神によっては選ばれた、尊い、生きた石」であ
り、「あなたがた(わたしたち)自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられる
ように」(ペトロ一2章4、5節)、聖霊によって、助けられ、教会の礼拝に導かれます。神の備
えられた、今日というこの日に、イエスを救い主、真の神とし、神の栄光を讃美しましょう。              

20181216日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。                            イザヤ書111

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。                     マタイによる福音書29節 

 

 

 

序・命の主であり、救いの主でいます、神の慰めと祝福の中に、契約の子・幼子の誕生の知らせを聞き、一つの希望を抱くことがゆるされました。そして、一つの名前、一つの字に希望を託すように、名前が付けられました。イエス・キリストは、その名を「インマヌエル」と呼ばれるという名のとおりに、わたしたちを一つの民するために、この世にお生まれくださいました。そして、御子イエス・キリストを遣わされた神は、御心の時に、ご自身の希望を、わたしたちの内にたしかにしてくださるために、御心の実現をしるしてくださいます。

 

1・「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これがわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世記913節)と、主なる神は、洪水の後、救われたノアと彼の息子たちを祝福して言われました。また、「主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き 幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え 敵と報復する者を鎮めるために。」(詩編8編23節 聖書協会共同訳)と約束され、「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みられるとは。(45節)と感嘆の声が上げられた、この預言的詩編のとおりに、まことの王、主イエス・キリストは、子どもたちの賛美の声の中、ろばの子に乗って、エルサレムに入城しました。

 

2・このまことの王でいます、イエス・キリストの誕生は、イザヤの時代には、「エッサイの株からひとつの芽が萌え出でる」という命と希望の預言によって、物語られます。二王国に分裂したイスラエルの民は、アッシリアの脅威と神の裁きのただ中で、そのアッシリアの崩壊が預言されます。それは、人の目には、壊滅的な打撃を受けたイスラエルの民が、再び、主によって希望を抱くことをゆるされる、という大いなる希望の預言です。

 

 しかも、この「エッサイの株」とは、安易にダビデの子と呼ばない、へりくだった表現です。それは、主が、貧しい羊飼いの末息子であった、ダビデを選ばれ、サムエルが、彼に油が注がれたことを思い起こすものです。「あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(サムエル上161節)との、主の選びこそ、ダビデ任職の動機なのです。

 

 イエス・キリストが、ベツレヘムでお生まれになった後のこと(ヘロデの殺した子たちの年齢からは二歳以下、しかし、正確な日数は不明)です。占星術の学者たちの来訪は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」とは、学者たちが異邦人であったことを証する言葉です。この時、かつてアッシリアの時代がそうであったように、王と人びとの中に「不安」が生じます。ヘロデ自身もユダヤ人ではありませんでしが、学者たちと同じように、幼子イエスを礼拝する心を持つどころか、不安と恐れから、「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイによる福音書216節)のです。主イエスの降誕は、初めから、世のただ中で起こった事実です。

 

3・「彼はナザレ人と呼ばれる」(マタイによる福音書223節)との預言の成就は、第一に、自ら進んで自発的に誓約をなした「ナジル人」(民数記6章)、第二に、エッサイの株から萌え出た「若枝」を指しています。エッサイと同じように、さげすまれた土地と家庭で育ちながら、「その上に主の霊」がとどまり、「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされた、罪なき小羊、まことの人となられたこそ、まことの神、御子こそ、イエス・キリストです。「その日が来れば エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて慕う そのとどまるところは栄光に輝く」のです。なんと、大いなる、主の恵みと憐れみによる、御心の実現でしょうか。

 

結・今日、主のもとに来て、わたしたちも、主の霊に満たされ、御言葉によって望みを抱き、主の民の一人として、悔い改めと献身の誓いを新たにしましょう。

 

 

 

 

 

 

2018129日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。         イザヤ書714

 

 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。                         マタイによる福音書122

 

 

 

序・聖書は、旧新両約聖書66巻から成り立っています。この「旧約」「新約」とは、「旧(ふる)い約束」「新しい約束」という意味です。そして、この約束のことを、聖書では、「契約(けいやく)」と言います。つまり、旧約新約とは、旧契約、新契約という意味です。

 

1・始祖アダムにおいて罪が世に入り、全人類が堕落しました。ですから、契約違反こそが、罪です。それでは、なぜ、「新しい契約」を神自ら、ある者たちと結んでくださったのか?それは、まったく、神の側のご意志、深い憐れみに属することであって、決して、はじめから、神と人間の対等な間柄の中で結ばれたものではないのです。

 

 つまり、創造主である御方が、創造の冠とされた人間と契約を結んでくださるという「へりくだり」にあります。ちなみに、マタイによる福音書55節を、柔和と訳されたところを、「へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と聖書協会共同訳では訳しています。神が私たちと契約を結ばれたことは、へりくだりの何ものでなく、この神のへりくだりを知り、同じようにする者こそが、「へりくだった、柔和な者」であるからです。

 

2・マタイによる福音書1章のイエス・キリストの「系図」とは「創成の書」とも訳されます。ただの人の系図ではなく、主なる神が、自ら、新たに創(はじめ)めてくださり、その約束を実現された書なのです。神の約束の実現こそ、旧約の時代に立てられた、まことの預言者たちの告げたことです。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの創成の書」こそ、福音書のみならず、聖書の全体であり、その要約です。

 

 イザヤは、系図の中では、19節の時代の預言者です。「ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、」というところです。ところが、この「アハズはヒゼキヤを」という時代は、「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、(アハズ)王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」(イザヤ書72節)とあるように、小国、南ユダ王国の王の心も民の心も、同様の小国、北イスラエル王国(エフライム)が、アラムと反アッシリア同盟を結んだために、王も民も、その心が大変動揺した時代です。この時、アハズは、「どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください。」(列王記下167節)と、アッシリア大国に助けを求めるのです。しかも、「アハズは主の神殿、王宮、高官の家の財産を一部アッシリアの王に差し出したが、何の助けにもならなかった。」(歴代誌下2821節)のです。

 

3・このように、神の契約の歴史は、アハズの罪と不信にもかからわず、神の憐れみによる恵みは、ヒゼキアに継承されていくという、事実をありのままに伝えられています。これは、どのような時代の流れであろうと、その中で、神の民が不信を働こうと、じっさいは、むしろ、神の契約の歴史が固く立ち続けていることを意味しています。

 

 主なる神はイザヤに息子(残りの者は帰るという名)といっしょに、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と命じます。そして、アラムの謀略の中でも、「主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない(しっかりと立つことはできない)。」(イザヤ書739節)と、この時になすべきは、ただ神の前に静まり、神を頭とする一つの民であることを思い起こすように命じるのです。

 

結・アハズは主を求めない不信の罪にもかからわず、インマヌエル預言もって、神は、御子イエス・キリストの降誕において、救いの約束を実現し、“静まって、主の御心を実現を信じて、しっかりと立つ”者として、自ら贖われる民を一にするという、御心を成し遂げられます。インマヌエルとは、神我ら共にいまして、われらを神と一つの民とされるという、大いなる神の恵みの御業の実現をしるす名なのです。ここに、主の救いと平安に至る道があります。

 

 

 

 

2018122日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。                       マルコによる福音書1章34

 

 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべて野の花のようなもの。          イザヤ書406

 

 

 

序・アドベントとは?

 

 今日からアドベントに入ります。アドベントとはもともと「到来」「出現」という意味で、主イエス・キリストの到来を待ち望む期間(4週間)を言います。それは、神の命じられた期間ではなく、むしろ、福音を宣べ伝えていく歴史の中で、冬至の祭りであったものが、クリスマスに変えられたように、教会的な暦が整えられていく中で、だんだんと人々に受け入れられていった過程の中で、日本においても、一つの文化・慣習になりつつあるものです。

 

1・神の声を聞くとは?

 

 今、わたしたちは、神の言葉に聞くとき、そのような歴史的文化的背景はどのような意味をもつのでしょうか。じつは、神の声は、まったく、自由に、突如、この世界のただ中に語られます。神が備えられた時に、天使の声をもって、ある特別な使命を与えられた人をとおして、神の声は、特定の人たちに伝えられてきました。

 

 マルコによる福音書は、この「神の声」が告げられた時に、思いが向けられています。ルカによる福音書のように、洗礼者ヨハネと主イエスの生まれた頃よりも、その働きに思いを向けます。洗礼者ヨハネの働きは、預言者イザヤの声とその実現であり、主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた時に、御子を証する、生(なま)の、神の声が告げられるのです。

 

 今、わたしたちにとって、最も大切なことは、聖霊によって、神の声を聞くことです。それは、そのリアリティーを、神の臨在において、わたしたちは、経験していきます。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ525節)との主イエスの約束のとおり、主の声を聞く者は、神を喜ぶ者に変えられます。

 

2・伝道の困難とは?

 

 それでは、わたしたちは、いつ、どのように、「神の声」を聞く(あるいは伝える)、のでしょうか。それは、第一に、教会(エクレシア:神の召し集められた群れ)の礼拝、集会、交わりです。もちろん、個人的に、聖書を読むだけで、神の声に導かれることもあるのですが、それでも、必ず、教会の礼拝に導かれていきます。それは、神は、御子イエス・キリストをもって、ご自身の教会をこの世に建て、霊的に成長することを良しとされたからです。ですから、教会の礼拝から離れた伝道方法は、じつは、とくべつな配慮が必要です。使徒パウロも、多くの場合、まずユダヤ人会堂(ベレヤ)や祈りの場所(フィリピ)で伝道しました。しかし、広場での伝道(アテネ)では、死者の復活について、嘲笑や拒絶に遭いながらも、数人の従順な者が与えられました(使徒言行録173234節)。

 

 この意味で、教会は、数的な目標を立てて鼓舞する場所ではないことに気づかされます。ときに、それが、自己反省的意味をもって奨励されても、やはり、本筋にはなり得ないのです。しかも、主イエス御自身、「御自身のことを言いふらさないようにと戒められた」(マタイによる福音書1216節)こともありました。それは、世が、神の声を素直に聞かず、関心を持たず、心頑なであるだけでなく、神の言葉を告げる者たちを、激しく拒絶し、殺意すら露わにするものであることを知っておられるからです。事実、洗礼者ヨハネもヘロデにその首を見世物にされ、主イエスは、二人の犯罪人といっしょに十字架に掛けられたのです。

 

結・神が聞かれる祈りとは?

 

 イザヤは、「何と呼びかけたらよいのか」と問い返しました。そこで示された御心は人間のはかなさです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント第二129節)とは、罪と死を負う、土の器に過ぎない間に示された、主イエスの直接の声です。そして、主イエス自ら、十字架の上で、「渇く」「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書192830節)と叫ばれました。今、聖霊に満たされて、わたしたちの内なる声が何を呼び求めているでしょうか。弱さの中でこそ、主の栄光を求めて祈りましょう。

 

 

 

20181125日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に帰る。                             コへレトの言葉320

 

 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。                  ローマの信徒への手紙821

 

 

 

序・あなたが今本当にしたいことは(気まま、わがままという意味ではなく…)?

 

 「私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。」(夏目漱石『私の個人主義』1914年[大正3])とは、「自分は本当は何をしたいのか分からない」との今を生きる人々の不安に寄り添うある精神科医の引用する、文豪の言葉です。そこでは、「主体」(人は何のために生きるのかの様な)を失った、「他人本位」(むしろ、依存、隷属とも言える?)からいかに脱却するか、が問われています。

 

1・祈りの準備:死を人生の終わりとするか、それとも‥。

 

 コへレトは、「すべては空しく、すべてはひとつのところに行く」と言い、「すべては塵から成った、すべては塵に帰る」と言います。それは、人間と動物が同じところに行き着くという観察的理解よりも、神の定めを信じる者として、一つの「内面的な空虚さ」を、神と共にある一人格において、承認しようとする霊的意志があります。

 

 さらには、「正義の座に悪がある」(316節)と真実を見つめるコへレトにおいては、「人間が動物に優越性を持たない死の場所」であり、「最高の正義は、悪人も義人も滅ぶ、死という決定的平等主義ではないか」(西村俊昭)との真実の問いがあります。

 

 人から与えられた問いに正しく答える訓練に忙しい(?)社会では、自分の内面的で根源的で良心的問いに答えてくれない限り、不安と恐れが残り続けます。

 

2・祈りの過程:復活の主に贖われた者たちと全被造物の苦しみと共に

 

 使徒パウロは、十字架にかけられ、死んだはずの、到底、メシアではあり得ない、主イエス・キリストは、復活して、天に生きておられることを、直接、主イエスから知らされたとき、人生の一大転換を迎えました。そして、神学的思索は、(人間の誇りになりさがった)神の律法を絶対的正義として、しなければならないという強制的義務感から、キリストと共にある福音的希望に変えられていくことになります。ローマの信徒への手紙815節には、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた」とあります。これこそが、パウロが罪の縄目(なわめ)から解放された様が言い表されている言葉です。そして、キリストによって罪の縄目を解かれた者たちが、なおも、「キリストと共に苦しむ」という道のりの中にあることを明らかにします。

 

 816節は、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」と、わたしたちが、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ霊について、その働きが、わたしたちの内なる声と共にあることを明らかにしています。そして、罪贖われた者たちの苦しみは、「キリスト共にある」ものであること、わたしたちが神の、キリストとの共同の相続人であると教えられます。そして、「現在の苦しみは、将来わたしたちに与えられるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と「わたしの思い」を伝えます。さらには、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(822節)と言い、「“霊”(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(823節)と伝えます。じつに、パウロにとって、祈りとは、確かな希望であり、キリストと共なるうめきと苦しみにおける、聖霊による良心的証しによる真実なものです。

 

結・祈りの目標:天に上げられ、再び来られるキリストの内にある希望

 

 「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ110節)「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ320節)との希望は、苦難の中で伝えられた福音です。主の再臨の日まで、主と共に生きる教会に連なることこそ、主の祝福の初穂です。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20181118日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。             コへレトの言葉319

 

 わたし(イエス・キリスト)の命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 

                            ヨハネによる福音書1514

 

 

 

序・人間の尊厳とは?

 

 わたしたち人間は、神との関係(信仰:対神)、人と人の間(対社会:対人)、人間と被造物(動物を含むすべての世界:対自然)という三つの関係の中におかれています。そして、その関係を保つ原理において、創造主であり、救い主であり、助け主である、三位一体の神の御心に適うことが、神の栄光をあらわすにふさわしい道と言うことができます。

 

1・創造=人間と動物の類似性・相違性を正しく認識するために

 

 コへレトの言う、わたしたち「人間に臨むことは動物に臨み」とは、人間も結局動物と同じように死ぬ運命なのだ、と言っているのではなく、創造主である神の御心において、人間は、動物と同じように、息あるものであり、死ぬことを定められていると告白するものです。

 

 けれども、ここで、コへレトは、何か、人間と動物の類似点を探して、それをもって、高度な分析をしようとしているのではありません。今日、多くの人々が教えられ、人生観世界観にも大きな影響を与えていると思われる進化論も、つまるところ、この類似性の認識に根拠があります。しかし、問われるべきは、人間が人間であること、動物との相違点です。

 

 創世記1章27節における人間の創造は、神の言葉によって、被造世界の冠として人間が造られたことを教えています。しかも、人間は神にかたどってつくられたと教えられています。これも、神と類似する者として造られたという意味ではなく、あくまでも、霊でいます神ご自身の似姿として造られたと言っているに過ぎません。ちょうど、主イエスが、当時の硬貨をさしてそこにある皇帝の肖像を問うたように、わたしたちは、神によって造られた一つの像、土の器に過ぎないのです。

 

2・堕落=神のかたちに造られた人間を知るという「神の知恵」を求めて

 

 それでは、わたしたちが、神のかたちにかたどって造られた人間であることを知ることの恵みはどこにあるのでしょうか。その一つのてがかりは、永遠の神の子が人間となられた「受肉」に求めることができます。なぜなら、人間となられた主イエスこそ、罪のない人間であり、ただお一人、神との完全な交わりをお持ちの御方であるからです。

 

 主イエスは、世の罪を問うときに、徹底して、その心を問われました。そして、それこそ、人間のあらゆる言動が出てくるところであり、その罪と汚れと腐敗を知っておられました。人間が、被造物の冠として造られ、堕落した後にも、被造物を支配する権能を神が残してくださいました(詩編86節)。しかし、罪と汚れと腐敗を負う全人類は、戦争における大量殺戮、自然破壊など、およそ動物にはなしえない悪事をもって、被造世界を傷つけ、文字どおり、人間のみならず、すべての被造物(被造世界)はともにうめいています(ローマ822節)。

 

 主イエスは、「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。」(ルカによる福音書114950節)と言われ、当時の宗教的指導者たちがなおざりにしていた、「神の」知恵を明らかにしました。それは、人間の罪の最たるものが、御言葉をないがしろにすることであることを示し、その責任を問うものです。

 

結・贖い=わたしたちをご自身の友、仲閒、相棒としてくださる、主イエスとともなる働き

 

 主イエスは、神の御前に、これほどまでに罪深い世を裁くためでななく、信じる者を救うために来られました。これは、ただ、神の憐れみであり、大きな慰めです。「神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリント第一120節)復活・昇天された主イエスこそ、本当の救い主であり、罪にまみれた人間の尊厳を、ただ神の栄光ために清めてくださる御方です。主イエスの命じるところを行うならば、わたしたちは主とともに働く良き友、仲閒、相棒です。あらゆる人間社会のただ中に、教会という小社会があり、人間の尊厳の、真の救いを求めます。