8月5日礼拝讃美と説教・祈祷

 

2018812日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 

                               コへレトの言葉311

 

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。             ローマの信徒への手紙830

 

 

 

序・「人間の義(正義)の尺度(基準、規準)をもって、神の義(正義)を測る者は、よこしまをなす」(アウグスティヌス)との言葉のとおりに、聖書的な事柄だけでなく、今日の社会においても、物事の多くの判断は、人のものさし(尺度、基準、基準)によります。

 

1・コへレトは、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」31節)と言い、わたしたちが、神が定められた時の中に身を置くものであることを自覚しつつ、人は何のために生きるのか、働くのか、という根源的問いに対して、神の定められた時において、時宜に適って労苦するためであり、そのためにこそ、神は人間に「永遠を思う心」、じつに、“神(キリスト)と共に生き続ける持続的思い”を心の中に与えられた、という一つの小さな、しかし、確かな、中間的結論を与えられます。

 

 そして、さらに、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言います。それは、自分に与えられた小さな結論に対する譲歩であり、恐れとも言えます。この節は、「人は神が始めから終わりまでなす(なされる)ことを見い出すことのないままに」(西村訳)とも訳されます。人間から見れば、神のなさることには隠されたものであり、神から見れば、人間の知るところは、限定的なものなのです。

 

2・使徒パウロは、しばしば、その書簡(手紙)において、神のなさったことについて、「知らないのですか」と問いかけます。ローマ書では、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」(ローマ63節)を問い、コリント書では、「自分は何か知っていると思う人がいたら、知れねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(コリント一83節)、と言い、偶像の神々と呼ばれるものがいても、「わたしたちにとては、唯一の神、父である神がおあれ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(コリント一86節)と告白し、神とキリストのなさっていること(御業)を、あるがままに伝えます。

 

3・イエス・キリストは、「神の国(恵みの支配、摂理、備え)」について、このように教えてくださいまいした。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ42629節)と。

 

今、わたしたちは、イエス・キリストが一度来られ、十字架の死に引き渡され、死者の中から三日目に復活し、天に上げられたことを、聖書に書いてあるとおりに、知っている(知ることができる」、恵みの日、救いの時、収穫の時に生かされています。使徒パウロは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ826節)と言いました。それは、キリストに贖われてなおも、うめき、苦しむものであることを物語っています。わたしたちも、祈る時に、とくに、多くの人がいるところでの祈りに、とまどいを覚えないでしょうか。あるいは、一人静まって祈るときにも、なかなか言葉が口から出てこない経験はないでしょうか。しかし、信仰によって救われ、キリストの内に希望を抱くとき、わたしたちのうめきの言葉も、確実に、神に聞かれていると信じることができます。

 

結・神の栄光がその姿を完全にあらわすとき、わたしたちは、キリストに似た者に完全に変えられるのです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(テモテ二213節)「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。」(イザヤ書4028節)との御言葉によって祈り、神の召しと栄光を真に求めましょう。

 

 

 

 

201885日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 

                                コへレトの言葉3章11節

 

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 コリントの信徒への手紙二46

 

 

 

序・「人間は考える葦である」(パスカル)と言われるほどに、弱いものでありながら、物事を考えることは、本来、神のかたちにかたどって造られた人間の普遍的な在り方です。コへレトも、神の定められた時の中に、人間のあらゆる労苦が置かれていることを思いつつ、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」と言います。

 

1・この「神はすべてを・・造り」とは、天地創造の御業のことではなく、ここでは、むしろ、人間の労苦のすべてのことを指しています。つまり、人間の労苦を命じられた神は、そのすべての労苦を、ご自身の定められた時に適って、生じ(プロデュース)させておられるのです。

 

 この御言葉は、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)と訳されることもありますが、時宜に適った「美しさ」とは、必ずしもいつも受け入れやすく、称賛に値するということではなく、むしろ、神の備えられれた細やかな配慮を見るときに、人間が不断の緩慢さをいましめられて、我に返るように、神の摂理の業をほめたたえるように、真実を知ることを教えるものです(マタイによる福音書6章26、28節「空の鳥」「野の花」)。

 

 まことの預言者エレミヤは、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレミヤ書179節)と問います。それは、人間の堕落ゆえの心の闇、罪と悲惨は、ただ、神によってしか癒されないことを物語っています。

 

 コへレトも、ここで、ただ、神の時宜に適う配慮を覚えているだけでなく、神が、「永遠を思う心を人に与える」と言っています。この「永遠を思う心」とは、今の生きている世界に嫌気がさして、永遠の世界をイメージするような逃避的な思いではなく、むしろ、「常に持続するものへの願望」のことであり、「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます」(詩編8編4節)と告白するように、創造主なる神の御手を被造世界に認めることです。

 

2・使徒パウロは、自身の弱さを、神に造られた「土の器」という言葉に込めました。そして、「いつもイエスの死を体にまとっている」(10節)と言い、自分が死ぬべき体を負うものであり、しかも、絶えず、様々な危険、試練、迫害、困難の中に置かれながら、それは、そのただ中で、「イエスの命がこの体に現れるため」であり、だからこそ、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(89節)と告白するのです。

 

 じつに、主イエス・キリストの死と復活の命は、パウロ自身の体においても、明らかにされているのです。それは、パウロの信仰のゆえというよりも、キリストが、パウロにおいて、働き、その御力を、「土の器」(7節)の中に、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」という「宝」(たから)を与えておられたからです(67節)。

 

 パウロは、神の恵みと召しによって、この福音の光という「宝」を「土の器」の中にいたただき、イエスの死と命にあずかりつつ、『わたしは信じた。それで、わたしは語った』(ギリシャ語訳聖書の詩編から引用)と言います(18節)。それは、まぎれもなく、パウロの信仰も、福音宣教も、ただ、復活の主と共にあるものであり、だからこそ、パウロにとって、将来の復活(を信じること、伝えること)は、今を生かす力そのものです。

 

結・「この世の神が、信じようとはしないこの(滅びの道をたどる)人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないように」(4節)しているのなら、なおさら、わたしたちは、目を覚まして、主の福音の光を「土の器」にいただく者として、主の栄光をあらわすことに尽くさなければなりません。「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるため」(15節)に。

 

 

 

 

 

2018729日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。    コへレトの言葉310

 

わたし(イエス・キリスト)は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。     マタイによる福音書1129

 

 

 

序・「人は何のために働くのか」という人生における大切な問いは、毎日の労苦の繰り返すことが問題なのではなく、言わば、究極の生き甲斐である、人生の主な、最高の目的を問うことです。コへレトは、神の定められた「時」の中に身を置くことにおいて、生命のかけがえのないこと、不可抗力なこと、感情の変化、他者への態度、継続的祈り、真実を問うこと、を通して、わたしたちが負うべき重荷が、神の人に与える労苦、務めとして受けとめられています。

 

1・創世記3章には、全人類が堕落したとき、神がアダムに「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(17節)と言われたことが書かれています。それは、堕落ゆえに、人の労苦は、エデンの園での祝福に満ちた喜びから、糧を得るためのものにいやしめられました。

 

コへレトの「務め」とは奇しくも、「いやしくされる」「苦しめられること」(語意)です。

 

 この意味で、聖書の労働(召命)観は、第一に、罪ゆえにいやしめられたものであり、食べるための苦しみを避けて通ることができないこと、第二に、それは、アブラハム、サラ、モーセ、アロン、ザカリヤ、エリサベツたちが、そうであったように、老齢になっても、主が与えてくださる召しに応えることであって、それは、ただ、主なる神の憐れみによって、とキリストの贖いのゆえに、神の栄光をあらわすにふさわしいものに変えられること、です。

 

 今、わたしたちは、神が与えてくださっている労苦を、罪ゆえにいやしめられたものでありながら、キリストの贖いのゆえに感謝し、創造の完成に向かって喜ぶことができるように、祈りつつ、わたしたちの労苦の主、キリストと共に、励んでいくことが大切なのです。

 

2・イエス・キリストは、救われてなおも続く労苦を、ご自身の軛を負うことであり、キリストに学ぶことであると言いました。そして、そのために、キリストの柔和と謙遜に学ぶことが必要であることを教えてくださいました。

 

 そして、その前に、イエス・キリストは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町々を名指しし、悔い改めない町を叱責されます。それは、言わば、人の労苦が集められた町でしたが、その労苦からは、宗教的理由で、病人や罪人が除外されたもので、なお、いやしめられた労苦からの解放を求めるものでした。「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」との叱責は、人の高慢と驕りと頑なさが、人の名誉を誇りとしている貪欲:偶像礼拝であり、労苦において罪を重ねる在り方を物語っています。

 

 だからこそ、主イエスの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」との招きの言葉は、罪ゆえの疲れ、罪ゆえの重荷を負う者たちへと招きと言えます。そうです。すべての罪人への招きこそ、この主イエスの招きの言葉なのです。

 

3・主イエスの労苦は、ただ、「わたしたちの病」「わたしたちの痛み」を負うものでした。そして、主イエスは、その最も根源的な理由が、全人類の堕落にあること、そして、すべての人が、ご自身もとに来なければ救われないことを、最もよく知っておられます。そのために、必要なことは、ただ、自分の罪を認め、罪を悔い改めて、キリストのもとに来ることのみです。

 

 そして、悔い改めとは、すべての人に最も必要な、そうしなければ、神の御前に生き得ない、恵みの労苦、務め、召命であり、謙遜と柔和の道そのものなのです。「柔和な人たちは、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)と約束されたとおりに、キリストのもとに来て、柔和と謙遜の道を生きる人こそ、一度、堕落ゆえに呪われた大地を、キリストの憐れみのゆえに、贖われた大地として慈しみ、神の祝福を受け継ぐ者とされる人です。

 

結・イエス・キリストは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と約束してくださいました。同じ質量の物でも、担い方一つで重みが変わるように、キリストと共に重荷を担うとき、わたしたちは、神に与えられた労苦を、感謝し、喜ぶ者に変えられます。御言葉に聞く労苦、祈る労苦は、いずれも、聖霊の御力によるものです。日々、主の安息の中で、十字架の死から三日目に復活され、昇天された、キリストと共に、謙遜と柔和の道を労苦としましょう。

 

 

 

2018722日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

人が労苦してみたところで何になろう。            コへレトの言葉3章9節

 

キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。                ローマの信徒への手紙8章10

 

 

 

序・コへレトは、数々の時をここに挙げながら、人の労苦を再び問いかけています。「生まれる時、死ぬ時」「植える時、植えたものを抜く時」「殺す時、癒す時」「破壊する時、建てる時」等々において、しばしば、人の労苦は中断をよぎなくされ、あるいは、働きがいを失ったりします。労苦はしばしば、人の罪、あるいは、強大な権力のもとで、抹殺され、抑圧され、その自由を奪われています。主の召命(calling)において働きに仕えていると言えるとすれば、それは、本当に光栄なこと、感謝なことでしょう。

 

1・一つ思い起こせば、兄弟にエジプトに売られたヨセフが大臣になったことは、主の備えられた導き(摂理)でした。主がヨセフと共におられたので、飢饉の時にも豊作の時に備えた大臣であったことを知らない王がエジプトを治め、イスラエルの人々は、奴隷の苦役を課せられます(出エジプト記1章)。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」(出エジプト記2章23~25節)のです。

 

2・主イエスは、神と罪人の間の契約の仲保者となられた御方として、契約と祝福を「ぶどう園」にたとえて、「ぶどう園のたとえ話」(マタイによる福音書20章1~16節)において、人々の救いを、主人である神のもとで働く「労働」にたとえられました。ぶどう園で働く労働者を求められ一日、その日の朝から一日中働いた者にも、夕方から一時間しか働かなかった者にも、ぶどう園の主人が約束したとおりに、つまり、神の契約の祝福に従って、一デナリオンずつ賃金を払われたのです。主イエスは、このぶどう園のたとえ話をもって、ご自身の贖われた救いは、アブラハム、イサク、ヤコブのみならず、ダビデ、エレミヤを経て、ついには、ご自身の贖いの御業において、恵みの契約の条件が果たされたことによって、神の恵みによる救いの益(すべての祝福)は、どのような時代、歴史、生涯においても、人の労苦において収穫される、神の恵みであることを明らかにされました。

 

 そして肝心なことは、この労苦の益は、ただ、キリストの贖われた祝福を収穫として与えられるものであって、人の労苦が生み出したものではないのです。人間は、どれほど英知を尽くしても、決して、罪人を救い得る手立てを自分で作り出すことはできません。そして、最終的な人間の知恵の目標とも言える、死を克服することは、決して、人間自身の手で解決できないのです。

 

3・使徒パウロは、“内在する罪の問題”を根本から問いかえすとき、自問自答して哲学的な解答を得たのではなく、神の契約と祝福の中に、キリストの内に命が隠されていることを信じて、「霊によって体の仕業を絶つ」時、わたしたちは「生きます」(ローマの信徒への手紙8章13節)。そして、「キリストと共に苦しみなら、共にその栄光をも受ける」(ローマ8章17節)と言いました。それは、聖霊の恵みと御力によってのみ、罪と肉の問題は解決し、贖われた人間の労苦が、キリストの命において、その輝きを取り戻すものであることが明らかにされています。コロサイの信徒への手紙では、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3章3節)「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1章24節)と言うほどに、パウロは、キリスト・イエスの僕として、キリストの苦難と身をひとつにするようにしながら、キリストの体である教会に尽くすのです。主の奴隷であることは、パウロにとって、“主の労苦”そのものでした。

 

結・キリスト者にとって、キリストと共に生きることは、御国の進展と教会建設をされることに仕えることです。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84編11節)「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」(詩篇88編14節)と祈りましょう。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントの信徒への手紙二6章2節)と、主の恵みと救いの益を、日々の労苦において、絶えず思い起こましょう。

 

 

 

 

 

2018715日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時             コへレトの言葉38

 

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。            マタイによる福音書54445

 

 

 

序・主イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコによる福音書114節)。今、わたしたちは、主イエス・キリストが一度来られた時代を、「終わりの日」(ヨハネ639節)に向かって、共に、歩んでいます。

 

 そして、この「終わりの日」までの間、主イエスは、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコによる福音書138節)と言われます。

 

1・コへレトは、「愛する時」と「憎む時」、「戦いの時」と「平和の時」の対を、一連の「時」を表す言葉の最後に語ります。それは、第一の掟「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコによる福音書122931節)と命じられるように、主の御業によって生き、生かされている者たちにとって、最も根源的で、本質的な、心と態度の在り方を表すものです。

 

 人間の罪と悲惨を問いかけるとき、この主の掟の完全に適うことができるか、と問われて、「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」と、ハイデルベルク信仰問答(問5)は答えます。それほどまでに、アダムにおいて堕落し、原罪を負っていることは、深刻な霊的不能そのものなのです。 

 

2・この意味で、人間は、生まれながら、その良心においても、葛藤を生じやすく、また、素直に良いことに励み続けることが困難な性質を負っていることに気づかされます。事実、「あなたがたは、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブライ人への手紙124節)と警告されるほどに、罪への抵抗は、真剣に向き合うとき、人の手に負えないものでありながら、「主の鍛錬」おいて、「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」(ヘブライ人への手紙1211節)のです。

 

 コへレトの言葉には、「義」という言葉が出てきませんが、その眼差しは、絶えず、神の主権的な御業、「恵みの御業」(新共同訳)つまり、「神の義」に向けられています。詩編においては、絶えず、あらゆる試練、迫害、戦いの中で、「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き まっすぐにあなたの道を歩ませてください」(詩編5編9節、参照:詩編31編2節、詩編367,11節)と祈り求められ、「恵みの御業を民の末に告げ知らせる」(詩編2232節)と、主の恵みを受け継ぐ使命を告白します。今、わたしたちは、主の復活に、神の恵みの御業を確かに視るものとされています。

 

 十字架の死から三日目に復活された、一週の初めの日、主イエスは、ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家に閉じこもっていた弟子たちに「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書2021節)と言われ、聖霊の息をもって、世への派遣を命じられました。そして、一連の説教の終わりにおいても、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書1633節)と約束されました。

 

結・山上の説教において、主イエスが命じられる“愛敵の教え”も、命じられているとは、「祈りなさい」です。そこで問われていることは、わたしたちの心であり、罪であり、霊的鍛錬であることに気づかされます。その目的は、「あなたがたの天の父の子となるため」です。そして、主イエスにおいて思い起こされることも、ただ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ」る、神の恵みの御業、神の義、です。それは、全く、神の造られた「太陽の下」の人の労苦を問う、コへレトの眼差しと同じでありながら、ご自身のあがないのゆえに、神に敵対する者から、神の恵みに生きる子とされた者への約束です。主の完全を望み、目指し、祈りつつ、歩みましょう。(フィリピ312節、467節)

 

 

 

 

201878日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

裂く時、縫う時 黙する時、語る時              コへレトの言葉37

 

「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。                 マタイによる福音書2662

 

 

 

序・先週の大雨の始まりの頃、岐阜の長良川の上流で、わたしの息子の高校の同窓生でもありました、一人の青年が、遊び心で少し増水した川に入って命を落としました。とても残念で悲しい出来事でした。九州から駆けつけたお父様は、岩で頭を打って血だらけになった、(親元を離れて岐阜の専門学校学んでいた)息子の頭をなでながら、怒りの思いが込み上げて、息子に向かって叱りつけたと言います。お母様も、息子の死を受け入れること自体が大変なことでした。しかし、この青年は島根にあるキリスト教主義の高校を卒業し、岐阜の専門学校の近くのキリスト教会に導かれ、この青年を送る会が、その教会でもたれました。御言葉に導かれつつ、送る青年たちの思いを汲み、様式も服装も次第も自由な形式でもたれつつも、主の御言葉(ルカによる福音書2346節)によって、祈りと賛美と慰めをわかち合いつつあります。

 

1・コへレトの言う「裂く時」とは、「胸が張り裂けるばかりの悲しみ」と形容されるように、喪に服する時のように、激しく強い感情を抱く時を意味します。次々と苦難が襲ったヨブは、「立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して」(ヨブ記1章21節)主の摂理を信じ、御名を讃美します。「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(ヨブ122節)のです。

 

 そして、「裂く時」対になっている「縫う時」とは、その裂かれた服を再び新しく縫い直すことを意味すると言われます。人々にキリストの到来を告げ、心からの悔い改めを命じた、洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物として」いました(マタイによる福音書34節)。それは、旧約の時代に主から遣わされた預言者エリヤと思い起こされる、謙遜な姿でした(列王記下1章8節)。

 

2・もう一つの対になっている、「黙する時、語る時」は、主の召しに応えてそうするならば、御心に適うことですが、そうしないならば、不義であり、罪です。預言者エレミヤは、「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレミヤ書209節)と告白しました。

 

 ヤコブの手紙において、「多くの人が教師になってはなりません」といましめられる理由は、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すから」であり、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」と言われるほでに、言葉を正しく用いることは、非常に困難なことに気づかされます(ヤコブ312節)。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコブの手紙3810節)しかし、「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙310節)と命じられるように、わたしたちは、絶えず、まことの神から出る「上からの知恵」(ヤコブの手紙317節)を求める必要があります。

 

3・十字架への道を歩まれた、主イエス・キリストは、最高法院(サンヘドリン)と呼ばれた議会で裁判に立たれました。そこで、主イエスは、不利な証言に対しては黙し続けながら、なおも、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と尋問する大祭司に対して、ご自身のことを預言して告げられました。しかしその言葉を聞いて、大祭司は、服を裂きながら、「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」と問いかけ、「人々は死刑にすべきだ」と答え、「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り」侮辱するのです(マタイによる福音書276267節)。

 

結・「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せに」なられた」主イエスを模範とし、「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」に「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って」くださった、大牧者います主イエスによって、罪によって裂けた、心と魂の傷、その深い悲しみと痛みをいやされた恵みと慰めを感謝し、共に、祈りましょう(ペトロの手紙一32325節)。

 

 

 

201871日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

求める時、失う時 保つ時、放つ時              コへレトの言葉3章6

 

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいないのです。               使徒言行録27章22節

 

 

 

序・主イエス・キリストは、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。」(マタイによる福音書77節)と命じられました。

 

 それは、どのような境遇、身分、経験、等によらない、すべての人に命じられている緊急の命令です。あえて、主は、「求め」それを「続けること」に集中します。それは、それほどまでに、求めるとは、神との交わりを失った人間(罪人)にとって、呼び起こされるべき大切な霊的熱心であり、命、霊的飢え渇き、であることを示唆しています。

 

1・コへレトは、「求める(探す)時」と「失う(破壊する、消失する)時」を対とし、「保つ(見守る、守る)時」と「放つ(捨てる)時」を対とします。じつに、わたしたちは、満ちあふれる恵みを与えられていながら、そのかけがえのないことに気にとめていないことがあります。いつのまにか失っているものは、無自覚、無意識を理由に済ませられないことがあるのです(全人類の堕落とそれゆえの原罪と現行罪とその悲惨さ、罪の結果としての死)。

 

 わたしたちが、「保つ時」に維持されるものは、御言葉・律法・信仰を守るという、霊的清さです。この霊的清さは、主イエスが警告された、ファリサイ派の律法主義のように、自己義認のゆえに、人を見下すものではなく、かえって、柔和で謙遜な性質を帯びています。ですから、「放つ時」に捨てるものは、自分であり、そこで負うものは自分の十字架です。なぜなら、主イエス・キリストは、神の独り子としての栄光に固執されないで、わたしたちと同じようになってくださり、その試練を負ってくださったからです。

 

2・使徒パウロは、ローマ皇帝に上訴したために、囚人としてローマ行きの船に乗りましたが、そこで、「エウラキロン」と呼ばれる島の上から吹き下ろす暴風(北東からの突風)に遭い、「二百七十六人」(37節)が乗る大きな船は遭難しそうになります。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうえせようとしていた」(使徒言行録2720節)のです。パウロはこの時、「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。」(21節)と冬の嵐の時期の出航を制止しようとしたことを思い出しつつ、「元気を出しなさい」と励ますのです。それは、パウロが人々に証しするように、「わたしが仕え、礼拝している神からの天使」(23節)の声を聞き、「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」(24節)ことを確信していたからでした。そして、パウロの告げた言葉のとおりに、船は、当初の予定であったクレタ島のフェニクス島ではなく、ずっと目的地のローマに近い、マルタ島まで、暴風に流されて、一気に進みことになるのです。

 

 ひどい暴風雨の中で、人々がしたことは、「積み荷」「船具(ふなぐ)」を海に投げ捨てることでした。また、ようやく陸地が近づいてくると夜の間に、上陸用の「小舟」で船から逃げようとした者もいました(30節)。しかし、パウロは、14日もの間、不安のうちに全く何も食べずに過ごしてきた人々に、「だから、どうぞ何か食べてください」(34節)と勧め、「一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」のです(35節)。「そこで、一同も元気づいて食事をした」(36節)のでした。

 

結・わたしたちにとって、命の危険とは、出生時にも、子供から大人へ(自我と分別と責任)成長する時にも、病む時、老いる時にも、遭遇するものです。また、戦争、地震、災害、事故、等に遭遇することもあります。しかし、そこで、わたしたちは、キリストの命を求めます。十字架の死から三日目に復活され、天に上げられて主こそ、祈りの主であり、御自身の霊(聖霊)による執り成し手です。今日、聖餐の交わりにあずかる時、わたしたちが、人々とすべての危険も共にする、神の御手にある“運命・契約・霊的共同体“として生きましょう。

 

 

 

2018624日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時  

 

                             コへレトの言葉35

 

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。                  ルカによる福音書1520

 

 

 

 先日は、強い地震を経験し、なお、余震の緊張と不安の中にありながら、今日、礼拝が守られたことを感謝いたします。被災された方、なお、避難所におられる方の上に、主の慰めと平安と御守りを祈りつつ、御言葉に導かれたいと願います。

 

 コへレトは、この3章において、色々な「時」を対にして挙げながら、わたしたちに、神の備えられた時を思い起こすように導きます。「石を放つ時」と「石を集める時」の対は、ほかの対になった言葉とは異なり、「石」という一つの物についての人間の態度がここに明らかにされています。

 

 わたしたちは、地震などで物が壊れると、多くの場合、それを廃棄すると思います。しかし、それを何かの記念として取っておくこともできる訳です。つまり、石に対して捨てる方向なのか、集める方向なのか、ということです。

 

 石を放つ時とは、ダビデがペリシテ人のゴリアトの額を「石投げ紐(ひも)を使って飛ばし」て撃った(サムエル上1749節)ことを思い起こします。あるいは、イエス・キリストが、「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ87節)と言われ、姦通の現場で捕らえられた女を告発した人々を裁かれたことがありました。また、ステファノは「人々が石を投げつけている間」、主に自分の霊をゆだねつつ、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りをささげた時(使徒言行録7章5960節)、迫害の中でも、祈る時、また主のもとに眠る時でした。

 

 また、石を集める時とは、ノア、アブラム(ハム)、ヨシュア、サムエル、サウルが、「主に祭壇を築いた」ことを認めること(石からほかの材料に変わったかもしれませんが)ができます(創世記820節、127節、830節、サムエル上717節、1435節)。また、それと正反対に、イスラエルの王アハブは、「バアルの祭壇を築」(列王記上1632節)き、ユダの王マナセは、「主の神殿の中に・・異教の祭壇を築いた」(列王記下214節)のです。このように、「石」をどのように扱うか、は、事実、その時々の、人の心、信仰、態度の表現そのものです。(広島:平和の君教会 鳩の周りに宣教師たちの持ち寄った石のモニュメント(謝罪と和解)を掲示 宣教100年、原爆投下40年を記念して)

 

 「抱擁」とは、本来、真実の愛(愛情)、とその交わりを表現するものです。ウェストミンスター小教理問答問31には、聖霊の恵みによって、わたしたちが、イエス・キリストを「受け入れる」と訳される言葉は、もともと「抱擁する」(embrace)という言葉です。

 

 抱擁の時、抱擁を遠ざける時とは、必ずしも、愛とその反対という意味ではなく、むしろ、その表に出る態度の在り方を意味します。パウロは、信者同士の夫婦関係について、祈りに専心するために、自制と分別のある在り方を理解するように促しています(コリントの信徒への手紙一7章1~7節)。ヨセフと兄弟たちの抱擁の時、それは、罪の赦しとともに、神の備えられた和解の時でした(創世記451415節)。イスカリオテのユダは、「接吻で人の子(イエス)を裏切る」罪を犯しました(ルカ2248節)。

 

 放蕩息子の帰郷は、父(親)の抱擁において、神の真実の愛を表しています。それは、罪の赦しが、人の罪責感と告白にまさって、神自ら待ち望んでおられることであり、深い憐れみによるものであることを意味します。息子の言葉を待つまでもなく、父(親)は、「まだ遠く離れていたのに」「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。それは、「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかった」息子の帰還でした。神の愛は、この父の愛そのものです。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」(ペトロ一39節)忍耐しておられる主を覚えつつ、わたしたちも、皆共に、真実の悔い改めと、祈りと、献身を、日々、時々に、表していきましょう。

 

 

 

 

 

2018617日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時  

 

                             コへレトの言葉35

 

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。                  ルカによる福音書1520

 

 

 

 先日は、強い地震を経験し、なお、余震の緊張と不安の中にありながら、今日、礼拝が守られたことを感謝いたします。被災された方、なお、避難所におられる方の上に、主の慰めと平安と御守りを祈りつつ、御言葉に導かれたいと願います。

 

 コへレトは、この3章において、色々な「時」を対にして挙げながら、わたしたちに、神の備えられた時を思い起こすように導きます。「石を放つ時」と「石を集める時」の対は、ほかの対になった言葉とは異なり、「石」という一つの物についての人間の態度がここに明らかにされています。

 

 わたしたちは、地震などで物が壊れると、多くの場合、それを廃棄すると思います。しかし、それを何かの記念として取っておくこともできる訳です。つまり、石に対して捨てる方向なのか、集める方向なのか、ということです。

 

 石を放つ時とは、ダビデがペリシテ人のゴリアトの額を「石投げ紐(ひも)を使って飛ばし」て撃った(サムエル上1749節)ことを思い起こします。あるいは、イエス・キリストが、「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ87節)と言われ、姦通の現場で捕らえられた女を告発した人々を裁かれたことがありました。また、ステファノは「人々が石を投げつけている間」、主に自分の霊をゆだねつつ、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りをささげた時(使徒言行録7章5960節)、迫害の中でも、祈る時、また主のもとに眠る時でした。

 

 また、石を集める時とは、ノア、アブラム(ハム)、ヨシュア、サムエル、サウルが、「主に祭壇を築いた」ことを認めること(石からほかの材料に変わったかもしれませんが)ができます(創世記820節、127節、830節、サムエル上717節、1435節)。また、それと正反対に、イスラエルの王アハブは、「バアルの祭壇を築」(列王記上1632節)き、ユダの王マナセは、「主の神殿の中に・・異教の祭壇を築いた」(列王記下214節)のです。このように、「石」をどのように扱うか、は、事実、その時々の、人の心、信仰、態度の表現そのものです。(広島:平和の君教会 鳩の周りに宣教師たちの持ち寄った石のモニュメント(謝罪と和解)を掲示 宣教100年、原爆投下40年を記念して)

 

 「抱擁」とは、本来、真実の愛(愛情)、とその交わりを表現するものです。ウェストミンスター小教理問答問31には、聖霊の恵みによって、わたしたちが、イエス・キリストを「受け入れる」と訳される言葉は、もともと「抱擁する」(embrace)という言葉です。

 

 抱擁の時、抱擁を遠ざける時とは、必ずしも、愛とその反対という意味ではなく、むしろ、その表に出る態度の在り方を意味します。パウロは、信者同士の夫婦関係について、祈りに専心するために、自制と分別のある在り方を理解するように促しています(コリントの信徒への手紙一7章1~7節)。ヨセフと兄弟たちの抱擁の時、それは、罪の赦しとともに、神の備えられた和解の時でした(創世記451415節)。イスカリオテのユダは、「接吻で人の子(イエス)を裏切る」罪を犯しました(ルカ2248節)。

 

 放蕩息子の帰郷は、父(親)の抱擁において、神の真実の愛を表しています。それは、罪の赦しが、人の罪責感と告白にまさって、神自ら待ち望んでおられることであり、深い憐れみによるものであることを意味します。息子の言葉を待つまでもなく、父(親)は、「まだ遠く離れていたのに」「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。それは、「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかった」息子の帰還でした。神の愛は、この父の愛そのものです。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」(ペトロ一39節)忍耐しておられる主を覚えつつ、わたしたちも、皆共に、真実の悔い改めと、祈りと、献身を、日々、時々に、表していきましょう。

 

 

 

2018617日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

ルカによる福音書14章24~35節

 

 

 

弟子の条件

 

 25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

 ◆塩気のなくなった塩

 

34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

 

2018610日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

泣く時、笑う時 嘆き時、躍る時              コへレトの言葉34

 

悲しんでいるようで、常に喜び、貧しい(物乞いの:新共同訳聖書 初版)ようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

                         コリントの信徒への手紙二610

 

序・コへレトは、人生のむなしさを問いつつ、その手がかりを、神の造られた日の下での労苦の意味を求めます。それは、コへレト自身、おそらくは、ソロモンという一人の王として、およそ考えられる富を満喫しているようにみえながら、その実、その心は、絶えず、民を代表しつつ、「わたしは生きることをいとう」(2章17節)と告白するほどに、神への感謝と喜びを口にすることから、一見すると、遠いように思えます。

 

 しかしながら、コへレトは、人生の時を、二つの対照的な事柄をもって、神が備えられた時の中で、じつに、様々な時を与えられた一つ一つの時に共感する言葉をもって、集中的に、しかし、簡潔に、言い表します。

 

1・泣く時、それは、愛する者との死別とその共感する時であり、病苦、不安、恐れの感情を相まって、わたしたちが当然に抱く感情です。それは、笑う時、それは、そのような悲しみの感情がいやされる時であり、また、希望を抱くときであり、それに共感する思いです。

 

 ヨセフは、兄弟と再会した時、兄弟たちの殺意が、主の良き備えに転じられた時であり、喜びの時は、深い悔悛と憐れみを覚える時でした。「弟ベンジャミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たちに皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(創世記451415節)また、70年間のバビロンの地での捕囚から帰還した民は、「主の神殿の基礎を据えた」時、「主を賛美し、感謝し」ました。「人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。」、悲喜こもごもなものでした。

 

2・わたしたちが、十字架の死から三日目に復活された、イエスを主キリストと信じる信仰へと導かれることは、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人(自己義認・自己目的に生きる、しかし、霊的に死んでいる人)についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書157節)のです。

 

 また、主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、喜びに変わる」「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びを奪い去る者はいない。」(ヨハネによる福音書1620節、22節)と、神の備えられた時において、悲しみの時が、喜びの時に変わること、また、その喜びは、復活の主イエス・キリストとまみえることにおいて与えられる、永遠の喜びであることを約束されました。

 

また、主イエスは、「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか」と問いかけられ、「笛を吹いたのに、躍ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」との、広場に座って互いに呼びかける子供たちの、人々の感情からかけ離れた子供のつぶやきに、罪を罪として悲しみ、救いと救いとして喜ぶ感情から遠い世をうれいます(ルカ7章3132節)。

 

3・使徒パウロは、目に見える衰えと対比して「内なる人」の霊的更新を日々覚えつつ(コリント第二416節)、「天から与えられる住みか」(コリント第二5章4節)という復活体を求めつつ、キリストの裁き地上の人生をゆだねつつ、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント第二59節)と希求しました。そして、「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のため」「正気であるなら、それはあなたがたのため」(コリント第二513節)と言い、自身の感情の表裏に偽りのないことを証しします。

 

結・「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ1215節)との、主にある慰めを、すべての人と共にしていきましょう。そして、天の御国と主の再臨を待ち望みましょう。

 

 

 

20186月3日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時          コへレトの言葉3章3

 

ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラ戸に送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。                     ルカによる福音書23章11,12節 

 

 

 

序・聖霊の御業の中に、主イエス・キリストは、ご自身の体なる教会を、ご自身の御言葉の上に建て上げておられます(マタイ16章18節)。そして、教会のみならず、主イエス・キリストは、世界のすべての人々の主であり、あらゆる領域(社会の基礎としての家庭・為政者:国家・地域社会・文化形成:社会的営み、等々)の主でおられる御方です。

 

1・コへレトは、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3章1節)と言い、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」(3章2節)があることを具体的に、一つの対照・対としてあげています。

 

 「殺す時」の対は、「癒す時」であり、「破壊する時」の対は、「建てる時」です。ここで、コへレトは、人間の罪の行為を先に置いていることに注意したいと思います。アダムが堕落して以来、最初の殺人がカインによってなされ、罪は、憎悪と殺人において明らかになりました。十戒の第六戒は、神が命の主であることを重んじ、その命を奪うことの罪の重さを問いかけています。キリストの福音:真の、正統的、キリスト教は、じつに、罪からの救いは、キリストの言葉(福音)を聞いて信じることにおいて、神の裁きとしての死の宣告から解放されて、永遠のいのちを得ることを明らかにしています。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」のです(ヨハネによる福音書5章25節)。

 

2・この人の罪は、殺人の根である心における憎悪・侮辱・妬み、殺人行動にとどまらず、社会的・国家的な関係における、激しい経済競争、民族的争いや侵略戦争、に及びます。まことの預言者エレミヤは、「見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ書1章10節)との主の召命を与え、異教国バビロンのユダヤの民への捕囚という、神の罪への裁きの言葉のみならず、「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」(エレミヤ書24章7節)との、神の赦しと希望の預言を告げました。

 

神の定められた時の中で、人間の罪とその結果が、神の憐れみによって、「愛は多くの罪を覆う」(ペトロの手紙一4章8節)ことを、まず、教会が、兄弟愛において、じっさいに体現していくことをゆるしてくださいました。

 

3・イエス・キリストの十字架の死は、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5章8節)と言われ、神が、わたしたちに対する愛を示されたと理解します。しかし、十字架の死にいたる道、その時は、「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなた(主なる神)が油を注がれた聖なるイエスに逆らいました」(使徒言行録4章27節)と、信徒たちの祈りにおいて覚えられ、「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木(十字架)につけて殺したイエスを復活させられました」(使徒言行録5章30節)と使徒たちによって伝えられた御方です。 敵対していたヘロデとピラトは、イエスに対する態度において一致し、仲がよくなったと証しされます。しかし、その心は、イエスを拒絶し続けていました。それは、決して、二人の仲が深いところで深められたということではなく、体面的な一致に過ぎないのです。

 

結・ヘロデもピラトも、そして、異邦人も、イスラエルの民も、わたしたちも、皆、等しく、キリストの赦しを必要としている罪人です。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28節)と、“主”の御声に聞きましょう。そして、兄弟姉妹のため、人々のため、祈りましょう。

 

 

 

 

2018527日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

 創世記28章10~22節

 

 

 

 ◆ヤコブの夢

 

 10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

 

13 見よ、主が傍らに立って言われた。

 

 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 

  16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

 

  17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 

  18 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19 その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

 

  20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

 

 

 

 

 

 

2018520日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。イザヤ書5511

 

 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。   使徒言行録424

 

序・今日は、聖霊降臨日、五旬祭、ペンテコステ礼拝です。わたしたちの主イエスキリストは、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられました。約束の聖霊は、その死から50日目の日に、エルサレムにおいて、祈りを一つしていた120名ほどの群れの上に、降りました。その時、世界の各地から、五旬祭のために集まっていた人々が、その生まれ故郷の言葉で、神の業を語り始めました。それを見た人々は、大変驚きました(使徒言行禄2章1~4節)。

 

1・聖霊に満たされるとは、何か恍惚状態になって、真新しいことを言ったり、始めたりすることではなく、むしろ、昔から、天地を造られた主なる神御自身が、選びの民に告げて来られたことを、神御自身の御業の実現として、証言して伝える者として用いられることです。

 

 ですから、聖霊降臨の日、ペトロたちの語る説教において証された御方は、ただ、神から遣わされた御方、イエス・キリストであり、この御方を証しする聖書の言葉:律法と詩編と預言者という、今、わたしたちが手にしている「旧約聖書」の言葉をもって、主の言葉が、多くの人々に告げられたのです(使徒言行録21436節)。

 

2・「これを聞いた」人々は、大いに心を打たれ、使徒ペトロたちの命じる、悔い改めと洗礼と罪の赦しを与えられて、聖霊を賜物として受け、霊の交わりを一つにします。それは、「邪悪なこの時代」からの救いを告げる、イエス・キリストの十字架の死と復活という、ただ一つの救いを告げるという、一点において、成し遂げられた、神の御業です(使徒言行録23747節)。ペトロとヨハネの二人は、主の御名によって、足の不自由な人がいやされた時、それを、ただちに、神の御業において証ししました。そして、イエスを「神の僕」と呼び、十字架の死を、最初の説教同様に、人々の殺人と断罪しながら、神の御心の実現を告げ、悔い改めを命じます(使徒言行録3章)。そして、十字架にイエスがつけられた時、その刑を正当化するための裁判をした当事者たちが、再び、ペトロとヨハネを捕らえ、牢に入れます。そして、二人を取り調べ、聖霊に満たされたペトロの告げる神の業を聞きながら、「皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」ので、イエス・キリストの御名による言動を禁じる命令を下すのです。

 

3・しかし、ペトロとヨハネは、主のための迫害の中で、聖霊に満たされて、自分たちの言動を主の御前に問い返します。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と言い、釈放されるとこれらのことを、自分たちに属する者たち:仲間に祭司長たちや長老たちに言ったことを残らず話すのです(使徒言行録4章1~22節)。

 

「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげ」ました。それは、ペトロとヨハネ、使徒たちが、聖霊に満たされて、御言葉によって、神の業を人々に伝えたのと同じように、詩編2編の御言葉によって、事実を確かめ、御手(あなたの手)と御心(あなたの心)によって定められていたことと、神の御業をありのままに告白するのです。

 

結・教会の祈りは、聖霊に満たされて、神の御業を証する御言葉によってささげられます。そそして、御言葉によって、神の業を語り合いつつ、賛美と祈りと感謝をささげるのです(エフェソ51820節)。主イエスが、ただ、御心に服された「僕」としてご自身を現されたように、わたしたちも、使徒たちと仲間たち同様に、ただ、主の御前に「あなたの僕」と告白しつつ、日々、聖霊に満たされて、御言葉による祈りを求めていきましょう。主は、「わたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」真実な御方です。イザヤ書55章。

 

 

 

 

 

2018513日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

   使徒言行録 7章 1736

 

 

 

 17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、21 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。

 

 23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。

 

 30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。

 

 

 

 

201856日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く(ために定められた)時(がある)

 

                                コへレトの言葉3章1

 

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。                     ルカによる福音書6章20節

 

 

 

序・イースターからペンテコステに向かう日々において、わたしたちは、イエス・キリストの十字架と復活において成し遂げられた、贖いの御業を絶えず思い起こします。そして、じっさいに、聖霊の御業において、命の賜物をわたしたちに与えてくださることを信じつつ、教会の礼拝に導かれます。

 

 

 

1・コへレトが、「生まれる時、死ぬ時」という時、それは、神の定められた一度の生涯において、人間の不能は、その生涯を自分のものして定めることができない、ということです。イエス・キリストお一人だけが、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ1018節)御方であり、事実、十字架の死から三日目に復活してくださいました。これこそが、イエス・キリストが「父から受けた掟」(同)、真実の愛であり、神の約束の実現、御業そのものでした。

 

 わたしたちが、神の定めれた時において、生きる時、死ぬ時、を受け入れるために不可欠なことは、神が命の主であり、人生の主であることを信じることです。そのために、イエス・キリストの十字架と復活を知ることです。

 

 コへレトは、生きる時、死ぬ時、対になる言葉として、「植える時、植えたものを抜く時」と言っています。植えたものを抜くとは、枯れてしまったものを除くというよりも、まだ生き生きとしている食物を抜くことであって、人間であれば、殺人に価するものです。ですから、ある註解者は、植える時は、「平和」であって、それを抜く時は、「戦争」という意味を読み取ります。そうであれば、植えたものを抜く、とは、不条理で、理不尽な死、とも理解できます。

 

 

 

2・聖書の全体の光に照らして言えば、死は、人間にとって、堕落と罪と関係があります。創造の秩序からすれば、相容れないものが、堕落であり、罪であり、死です。ですから、人間にとって、堕落も、罪も、死も、悲しい感情を呼び起こし、つらい気持ちを持ち続けるものです。時間によって、悲しみが癒えるというよりも、多くの死に直面する度に、わたしたちは、むしろ、死の悲しみに対する自覚・感受性を育まれていくのではないでしょうか。それは、聖書の証する、イエス・キリストの十字架の死と、そこに示された神の真実と愛に対する霊的理解を深める機会を与えられることです。

 

 イエス・キリストは、山上の説教(マタイによる福音書5章以下)同様に、平地の説教と呼ばれるこのルカによる福音書6章において、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」と言われ、「今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。」とも言われました。これは、一見すると、対の言葉で、人生泣き笑いということが言われているように見えますが、対になっている理由は、6章22節の「人の子のために」と、626節の「偽預言者たち」という言葉です。つまり、キリストのために貧しくなり、悲しむ者であるのか、否か、が、神の支配の中に救われて新しい命に生きるか、死とほろびの道をたどるのか、のいずれか、なのです。

 

 主イエス・キリストは、ここに、二つの道を対比して明らかにすることにおいて、弟子たちに、そして、すべての人々に、偽りを警告し、この上ない喜び、本当の幸いに招いておられます。

 

 

 

結・ハイデルベルク信仰問答は、「生きるときも、死ぬときも、ただ一つの慰め」は、わたしたちの命が、自分のものではなく、主イエス・キリストのものである、と告白します。このとき、生きる時、死ぬ時、とは、神が備え与えてくださった、最も良い時であることを信じるように導かれます。イエス・キリストの十字架の死は、悪魔からすれば、御子の命を、「抜いた」時でした。しかし、神の御力は、悪魔において抜かれた命を、再び、取り戻してくださいました。事実、滅びの死から復活してくださったのです。死に定められた者たちに「わたしを求めよ、そして生きよ」(アモス5章4節)「生きよ」(エゼキエル18章32節)と命じてくださる“主”が、ここにおられます。

 

 

 

2018429日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。              創世記8章20節

 

 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。                           使徒言行録10章44節

 

 

 

1・今日は、イースター礼拝からペンテコステ礼拝に向かう第四週、主日の一日です。何事も、主が始めてくださる時があることを思い起こします。聖霊を与えてくださる神御自身が、わたしたちのささげる礼拝と福音的教育のすべてを、祝福してくださることを、信じ、祈り求めつつ、御言葉に聞き従っていきたいと思います。今日の午後もたれる、教会学校教師研修会のテーマは、「礼拝と説教と教育」ですが、この礼拝において、とくに注意したいことは、「礼拝の恵み」、その自由、その喜び、です。

 

2・それでは、そもそも、礼拝とは、何でしょうか。ノアは、洪水の後、まず、礼拝を自分から進んでささげました。そして、ノアがささげた礼拝を、神が受け入れてくださいました。ここに、礼拝の一つの原型があります。子たちの教育の目標は、第一に、自発的な告白であり、礼拝です。ノアは、それでは、どこで、そのような教育を受けたのでしょうか。創世記69節には、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」とあります。また、ヘブライ人への手紙117節には、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」とあります。

 

3・つまり、ノアも、ただ恵みによって義とされた者であって、それは、ノアの生まれつきの性格ではなく、むしろ、神の恵みによって、信仰に生きた人であった、という事です。

 

 ノアのささげた動物犠牲は、ノア自身が、罪人であることの自覚をもってささげたことを意味します。神のお告げに従ったノアとその家族の救いは、大洪水におけるそれ以外の人々の滅びの中で実現したものです。荒涼とした新しい大地の上で、ノアはどのような心境で礼拝をささげたでしょうか。ペトロの手紙二25節には、「義を説いていたノアたち八人」という言葉があります。箱舟を作っている間にも、ノアとその家族は、人々に、神の裁きの日の近いことを説き続けたのです。三人の子が与えられたから百年の間(500歳から600歳まで)。

 

 またペトロの手紙一319節以下には、キリストが死の時、その霊において、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されたとあり、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐しておられたのに従わなかった者」とあり、神ははじめからノアとその家族だけを救おうとされいたのではなく、猶予期間をもっておられたことを認めることができます。   

 

4・「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(同32021節)と教えられています。

 

 聖霊降臨の日において、エルサレムで、十字架にかけられたイエスこそ、神が復活させられた主であり、キリストであることが、ペトロたちの口を通して語られ、三千人の人々が回心し、洗礼が行われました。そして、その洗礼は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも行われました。それは、本当に、驚くべき、神の憐れみによる、奇跡であり、恵みの業そのものです。

 

5・「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」こと、「イエス・キリストこそが、すべての人の主である」こと、そして、神が、聖霊と力によって油注がれた者とされた、イエスの御業、また、その十字架の死から三日目の復活、神が命じられた福音であること、を、ペトロが異邦人コルネリウスの家で、「なおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」のです(使徒言行録103444節)。

 

 そこでささげられたのも、自発的な礼拝であり、神賛美です。それを見たペトロは洗礼を行うのです。このように福音的教育は、初めから礼拝の自由においてささげられるものです。

 

 

 

 

 

 

2018415日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。   コへレトの言葉3章1節

 

時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。                   エフェソの信徒への手紙5章1617

 

 

 

1 コへレトは、人生の「空しさ」を問いかけるとき、絶えず、「日」を造られた神の支配の中で、人間に与えられた「知恵」「知識」「快楽」「労苦」をよりどころにしながら、そのすべてにおいて、神が神であることの前に、人生のはかなさを覚えつつ、神の与えてくださる賜物を享受する、一つの知恵、思慮分別を明らかにしています。

 

 その知恵、思慮分別とは、「何事にも時がある」ということです。しかし、これは、決して、運命論、宿命論、偶然論の中に、自分の人生を逃避させることではなく、むしろ、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ことを、天地を造られた神のよき導きと信じることを意味しています。

 

 ここで、問題になることは、人間はしばしば、物事が変わらない前提で、人生を問うことです。コへレト自身も、「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代が過ぎればまた一代が起こり 永遠に絶えるのは大地」(134節)と言い、人間のはかなさを支える、変わらないものに目を留めました。

 

2 しかし、神はご自身、永遠、不変、無限の方でありながら、その御業においては、よい変化をわたしたちの生涯に与えてくださっています。子どもの成長、大人の成熟、そして、老いることの中でも、わたしたちは、霊的に成長していくよい機会を与えられています。

 

 コへレトが言う、「時」とはこの意味で、「時期」「季節」と訳される言葉で、「すべて定められた時」とは、「神の備えられた良き機会」という意味です。

 

 聖書の教えを理解する出発点となる教理に、神の聖定と予定があります。それは、神が、すべての世界を良きものとして造られたことを信じるとき、御子イエス・キリストの受難と復活の御業において成し遂げられた、神の贖いと救いの御業が、神の永遠の定めの中で実現したことを信じることへと導かれる、聖書の基礎となる教えです。

 

3 アダムにおいて堕落し、罪に陥った人間は、この神の定めを、運命論、宿命論、偶然論にして、自他を責め、あるいは、人生を諦め、時を支配しておられる神を認めるよりも、人の言葉によりたのみます。しかし、当然ながら、そこに、主を信じ、主を喜ぶ、思いを生じることはありません。

 

 イエス・キリストは、思い煩いをいましめつつ、こう言われました。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイによる福音書6章2729節)

 

4 それでは、わたしたちは、何を第一に求めたら良いのでしょうか。主イエスが言われたとおりです。「何よりもまず、神の国(支配、良き備え、良き機会)と神の義(律法、命、喜び)を求めなさい。」その約束は、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(同33節)

 

 使徒パウロは、「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」と誡めつつ、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と命じます。それは、「キリストと共に復活させられ、上にあるものを求め」(コロサイの信徒への手紙3章1節)者とに変えられ、「あなたの罪はゆるされた」との無罪宣告を受け、神の御前に立つ者とされた者たちすべてにあたられた、命の道です。ここで求められることは、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」という、霊的な、思慮分別です。

 

結 そして、思い起こすべきことは、キリストの復活命令であり、キリストの光に立ち帰ることそのものです。つまり、復活信仰こそ、キリスト者すべての本当の自己吟味・思慮分別・知恵のよりどころなのです 神賛美こそ、神礼拝の基本的内容です(十戒における第一戒、主の祈りにおける第一の祈願)。それは、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」と言われるとおりに、日常の言動のすべてを支配するものです。なお残る、罪の思いは、これを嫌い、反抗しますが、聖霊の助けと導きの中で、「時(神が備えられたよい機会)をよく用いなさい」との命令に、すべてをよきに変えられる、復活信仰によって、従っていきましょう。

 

 

 

201848日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

神は、善人と認めた人に知恵と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとして、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

 

                                コへレトの言葉226

 

(主イエスは)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。・・」

 

                              ヨハネによる福音書2022

 

1・ご自身の民を一つにされる、主イエス・キリスト

 

 主イエス・キリストは、使徒信条において、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と告白されるように、まことのさばき主として、すでにと地上の聖徒たち(生ける者)と、主のもとに召された天上の聖徒たち(死ねる者)を一つに、ご自身の民を、集めてくださるお方です(テサロニケ一4章14節)。

 

 しかしながら、この神のさばきを、わたしたち人間は、しばしば、ばくぜんと、善人と悪人にさばかれる、と理解しがちです。そして、ことさらに、そのような正しい神を、「嫌い」、そして、自他を「嫌う」傾向をもっています。

 

2・コへレトの言う「善人」と「悪人」とは?

 

 コへレトも、「善人」と「悪人」と言いますが、それは、世の神観を導入しているのではく、むしろ、「善人」は、道徳的な意味で善人というよりも、「神に恵まれた、喜ばれる人」のことを言っています。ですから、「悪人」も、ただ道徳的に悪い人ではなく、神ではなく、富(マモン、転じて、悪魔)に希望を置く人のことです。

 

 ですから、神に善人と認められた人は、神ご自身をただ恵みによって享受(エンジョイ)する人であって、それは、決して、努力の結果ではないのです。限定的に、罪を犯した“罪人は愚か者”、と、世は言うのですが、コへレトは、“神の御前に愚か者こそが、「悪人」(罪人、過つもの)”というのです。

 

 ここに、わたしたち神に造られた人間であり、アダムの罪(原罪)ゆえに、罪に陥り、堕落した、人間の罪観の本末転倒した思い込みと、聖書の教える罪観の啓示(恵みによって受け入れること)があります。

 

3・世から「罪人」「愚か者」して捨てられた、主イエスの十字架

 

 イエス・キリストの十字架刑死は、世において、「罪人」「愚か者」とされ、捨てられた人が、じつは、罪人の身代わりとなられた、神の御子であったことを告げるものです。それは、良いことをすれば、神が喜んでくれ、悪いをことしたら、神は喜ばれない、というありがちな、じっさいに、わたしたちが受けてきたかもしれない、言わば、宗教的道徳観・教育観の限界を、わたしたちに指し示しています。

 

 少なくとも、主イエスの弟子たちに対するあり方は、ご自身の十字架と復活・昇天を前にして、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネによる福音書13章1節)のであり、弟子たちが十字架を前にして、皆、逃げ去ることをご存知でありながら、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネによる福音書1336節)と言われるように、ご自身の御心を実現されることに、その思いは絶えず向けられています。

 

結・主の福音を告げる使徒的教会の使命

 

 そして、主イエスは、ご自身の復活の日の夕方、ユダヤ人たちを恐れて鍵をかけて一つの家に閉じこもっていた弟子たちに現れ、真ん中に立ち」「あなたがたに平和があるように」と言われ、その手とわき腹(十字架で受けた傷)を示されました。この時、「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。ここに、ただ、神の憐れみによって、罪赦された者として召し出されるただ一つの道があります。世の罪は、富のもとに人々を集めますが、御子イエス・キリストにおいて示された、神の憐れみは、十字架の主もとに、“本当の”「罪人」「愚か者」を集めてくださるのです。

 

 そして、主イエスは、弟子たちを派遣を宣言され、聖霊の息を与えてくださったのです。「だれの罪でも、・・」とは、この意味で、神お一人にしかなし得ない、罪の赦すという権限を、「十字架の言葉(ことば)」(コリント第一1章18節)、「神がすでに聖書の中で預言者をとおして約束された」「御子に関する」(ローマ123節)福音を告げること(教会訓練・戒規)にあるのです。

 

 

 

201841日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。              エゼキエル書3713

 

 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。・・」                    マルコによる福音書166

 

 

 

1 聖書に書いてあるとおり、復活された、主イエス・キリスト

 

    今日は、主の復活を記念する礼拝日:イースターです。キリスト教会の礼拝は、この主イエス・キリストの復活日以来、一週のはじめの日、日曜日に礼拝を守るように変えられました。聖書に書いてあるとおり、主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活されました。その日の出来事を、四福音書が伝えています。もし、主イエス・キリストが復活されなかったら、十字架の悲惨の中に、わたしたちは沈み込み、悲しんでばかりのことになってしまいます。けれども、主イエス・キリストは、事実、死者の中から、復活されたのです。その決定的な一つの証拠が、“空の墓”の事実です。

 

2 愛のささげものをささげる時にこそ、主は働かれる

 

 復活の日の朝、それは「安息日の終わる」時でした。この時に合わせるように、主の遺体は、アリマタヤのヨセフの手によって、亜麻布で巻かれ、墓に葬られました。その墓は、「岩を掘って作った墓」で「墓の入り口には石」が転がしてありました。この一部始終を、マグダラのマリヤともう一人のマリヤ(ヨセまたはヤコブの母マリヤ)は、「目つめ」ていました。「イエスに油の塗りに行くために香料を買った」とは、当時、ユダヤ人の埋葬の習慣においては、防腐措置はなく、アリマタヤのヨセフ同様に、二人のマリヤの愛のささげものです。愛の献身は、一度の機会を逃さないものです。今日、この日、この時に、わたしたちの献身も、真実で、適切なものでありたい、と願います。

 

 しかし、この婦人たちの献身は、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合うほどに、一途な思いの中で遂行されています。ところが、婦人たちの思いを超えて、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」のです。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」のです。

 

3 深い恐れの中で、主イエス・キリストの復活の事実を知る

 

 若者(御使い)は言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。・・」と。マルコによる福音書はこの事実を知った婦人たちの恐れをもって終わっています。それは、他の福音書にはない、深い心の痛手と悲惨と失望の中で、「震え上がり、正気を失って」「だれにも言わなかった」「恐ろしかった」と、最初の気持ちをそのままに伝える、貴重な証言です。

 

 主イエス・キリストの十字架が「わたしたちの罪のため」であり、復活も、そうです。ならば、わたしたちにとって、死の意味は、大きく変わったことになります。「墓から引き上げられるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知ることになる」との預言者エゼキエルの御言葉は、主イエス・キリストの復活を信じる者たちの魂において、命を与えられる時、「イエスの命がこの体に現れるために」「イエスの死を体にまとって」生きるのです(コリントの信徒への手紙二4章11節)。今日、わたしたちも、深い恐れと感謝と喜びをもって、主の復活を信じ、生ける主キリストの御前に、共に、神礼拝をささげましょう。

 

 

 

 

 

2018325日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。イザヤ書536

 

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」マルコによる福音書1421

 

 

序・主イエスの深い悲しみの中で コへレトは、「人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること」(コへレト224節)と言い、神からの祝福と賜物によって、自分自身の食欲、霊的満足を与えられることを、神の創造の目的に適う、「良いこと」と告白しました。

 

 それを正反対のことが、主イエスの口からユダに向かって言われます。それは、決して、ユダの裏切りをねたんでユダを悪く言う言葉ではなく、人間に命を与えられる神、キリストご自身の深い後悔であり、ユダの存在そのものを、御心に適うものではない、と言うことができる(被造物である人間はむしろ、神に与えられた人生・命・結婚・家族を尊ぶべきです!)、ただお一人のお方の言葉です。

 

1・主イエスの備えられた「過越の食事」 この意味で、最後の晩餐としばしば呼ばれる、主イエスと十二弟子の「過越の食事」は、相当の部分において形骸化・慣習化したものでありながら、その魂を満たすお方である、主イエス御自身の備えられた、特別な会食です。そして、ご自身の贖われた群れ(教会)のために、ご自身の十字架の死と復活を記念し、ご自身の再び来られる日に備えて、ご自身が共におられることを信じて(リアルプレゼンス)守る、聖餐制定の備えと言う意味で、主の深い憐れみによる恵みの礼典(サクラメント)の内実を問う、非常に大切な御言葉と言うことができます。 

 

 主イエス・キリストは、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ157節)と言われるほどに、ご自身の贖われた民一人一人の救いをご自身の栄光、喜びとしてくださるお方です。

 

2・サタン(悪魔)のふるいにかけられた十二弟子を守られた主イエス しかし、この悔い改めの意味を、十二弟子はだれ一人として分かっていた訳ではありません。それが分かるまでには、少なくとも、聖霊降臨の日を待たなければなりませんでした。ましてや、主イエスは、ペトロに「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ2232節)と言われるほどに、ユダの裏切りが、サタンの願いを神が許容されたことを知りながら、十二弟子が、ご自身の教会(エクレシア)が、一つの兄弟(神の家族)として、新しい力を与えられて、ご自身によって、世に派遣されていくことを祈っておられます。

 

 わたしたちが、ユダの裏切りから教えられることは、神の備えられた計画の実現の中で、ユダ一人を罪悪視することではなく、むしろ、十二弟子皆が、ふるいにかけられ、強い誘惑と危険の中で、主イエスの十字架を前にして、皆が、主を見捨てながらも、主は弟子たちを見捨てられず、かえって、ご自身の復活・昇天・聖霊降臨の日に備えておられる、という、主の備えそのものです。

 

 もちろん、ユダの罪責そのものは、決して、神の計画ゆえに軽減されるものではありません。しかし、主の深い憐れみにおいて、少なくとも、主イエスのゲツセマネの祈りの言葉「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(マルコ1434節)の中に、ご自身の祈りおいて任命され、「悪霊を追い出す権能を持たせ」(マルコ315節)た十二弟子の一人、ユダの離反という一過程が覚えられないはずはないのです。

 

3・「聖書の言葉は実現しなけれならなかった」 この聖書の言葉は、実現しなければならなかった」(使徒116節)との聖霊降臨を待つ、兄弟たちが祈りを一つにしていた時の証こそ、神の契約の実現を証しする、主の晩餐(聖餐)への備えそのものです。今、わたしたちは、この最後の晩餐を、最初の礼典として信じることができます。それは、主イエス自ら制定された、恵みの礼典であり、ご自身の贖いにおいて、わたしたちが一つの群れとされていることを証しする最高の機会です。イースター礼拝に備えつつ、祈りの「魂」を一つにしましょう(詩編133編、コリント一12章)。

 

 

 

 

20183月11日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され わたしの魂は慰めを受け入れません。             詩編773

 

ところが実際は、彼ら(信仰によって生きた証人たち)は更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。             ヘブライ人への手紙1116

 

序・わたしたちの苦しみを担われた主と共に

 

 今日は、男山教会一日修養会です。また、東日本大震災から7年目の日です。人生のどのような苦しみの中でも、御子イエス・キリストの十字架の苦しみをもって、わたしたちの苦しみをご自身のものとされた主と共に、忍耐しつつ、祈ることへと導かれていきます。

 

1・「苦難の襲うとき」その日、その時に、主を求めて祈る

 

 詩編77編は、「苦難の襲うとき」と言い、それが、不意に、また、受けざるを得ないものであることを強調します。そして、「わたしは主を求めます」と告白します。しかし、この時、「夜、わたしの手は疲れも知らず」、主に向かって、「差し出され」続けるのですが、「わたしの魂は慰めを受け入れません」と告白されます。ここに、わたしたち人間の弱さと、神の深い同情、憐れみの中で、ささげられる祈りであることをを知ることができます。苦難の日、多くの場合、わたしたちは、それまで頼っていたものを失い、心を傾ける領域が狭くなります。この時、信仰の本質が大いに試され、また、明らかにされるのです。

 

 7~10節「夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。『主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。』」(新改訳2017、表題を1節に数えないため、新共同訳の箇所を記す)ここには、苦難の日、深い失望と痛みの中で、しばしば、生じる思いは、主なる神の定められた時に対する執拗な問い(うたがい)と訴えです。それは、自分の内心を探り、主への訴えの純粋さを求める祈りと一つとされることと求めるものです。

 

2・目に見える変化よりも、主の御業を思い起こす

 

 そして、わたしたちがどれほど、自分の内心を追求し、神を求めるとき、「私が弱り果てたのはいと高き方(神)の右の手が変わったからだ」(11節)とまで、断言するのです。しかしこのうたがいの底から、再び、心が立ち上がっていくとき、思い起こされるのは、主なる神の変わることのない御業、出エジプトの救いの御業です。「あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民ヤコブとヨセフの子らを」(16節)それは、水の中に、道が開かれる仕方で、成し遂げられた、救いの御業です。

 

 震災の日に、わたしたちは、自然の変化を恐れます。しかし、同時に、人間が手を加えたもの(自然界にない放射線による汚染)が返って、住居を奪い続けている現実は、わたしたちに何を問いかけているでしょうか。堕落ゆえの罪と悲惨は、わたしたちの思いよりも、ずっと根深いものとして、人間社会のただ中に横たわっているのでは、と思います。

 

3・信仰によって、天の故郷を望む

 

 ヘブライ人への手紙11章は、「信仰によって」生きた人たちの証を連ねつつ、わたしたちにそれらの人たちと共におられた神に目を向けさせ、忍耐の中で、信仰によって、希望を抱くこと、「天の故郷」を求めて生きることへと導きます。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)。主イエスがすでに成し遂げられた、十字架と復活・昇天を信じ、様々な悲惨と苦しみの中にある、すべての人々のために、「信仰と希望と愛」(コリント一13章)を求めて、主の再び来られる日を信じて、真心から祈りをささげましょう。

 

 

 

201834日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

 

                            コへレトの言葉2章23

 

あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。                    コリントの信徒への手紙二1章7節

 

 

 

1・すべての人の痛みと悩みを知っておられる主(契約の神)

 

 コへレトは、人の労苦が、一生、日夜、その心を痛め、悩ませることを認め、その空しさを問います。詩編でも「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟るように。」 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。」(詩編39編6節)とあり、一生、生涯のはかなさを、主の御前に告白します(詩編90編9,10節)。

 

 しかしながら、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」(出エジプト記3章7節)と、主なる神は、モーセに言われて、エジプトの苦役の中にあるイスラエルの人々を救い出し、ご自身の契約と誓いのゆえに、カナンの地に導かれることを示されます。そこには、人々の苦難と痛みを、主なる神が、ご存知であることを知ることができます。

 

 苦難の中で、ヨブは、「人は死んでしまえば もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから 交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。呼んでください、わたしはお答えします。御手の業であるわたしを尋ね求めてください。」(ヨブ141415節)と言いました。それは、自暴自棄になって発せられた言葉ではなく、かえって、主なる神において与えられた命であり、陰府(よみ)死後の世界もまた主の支配の中にあるとの、「信仰」から出た言葉です。

 

2・復活の主の慰めを共にする時

 

 復活の主イエス・キリストにおいて「最後の敵として、死が滅ぼ」(コリント一1526節)してくださり、「死は勝利にのみ込まれ」(同1554節)ました。ここに、わたしたちが、死後の世界を陰府としていたずらに恐れることのない、ただ一つの理由があります。使徒パウロは、死の危険と苦難の中で、この主と共にある慰めを伝えています。

 

 そして、「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(コリント二1章9節)と伝えるのです。それは、生けるまことの神が、苦難の中で生きて働いておられる神であり、この神の働きに、パウロは、主の復活の御業を見ています。だからこそ、パウロにとって、苦難は、慰め(力強い励まし、力添え)を共にすることであると伝えます。

 

3・命の所有者でいます、主なる神に、人生:一生:生涯の目的を問う

 

 ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、わたしたちのただ一つの慰めは、わたしがわたし自身のものではなく、わたしは真実の救い主イエス・キリストのものです」と告白します。また、ウェストミンスター小教理問答は、その問いの初めに、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白します。人生のさまざな憂い、悲しみ、苦難の中で、わたしたちが、失望、落胆することなく、神の御前に生きるとき、人の命はだれのものか、人は何のために生きるのか、その問いが際だって明らかにされていきます。この問いを絶えず主の御前に祈り求めつつ、信仰の道を共に歩みましょう。

 

 

 

 

 

2018225日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。

 

                             コへレトの言葉2章22

 

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 ローマの信徒への手紙5章3,4節

 

序・神の声を聞くという「労苦」

 

 主イエス・キリストは、ご自身を捜し求めて来た人々に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ627節)と命じ、教えられました。それは、わたしたちに本当の労苦とは、“神に聞く”ためであることを示します。 

 

1・創造主なる神に、「心の追求するもの:苦しみ」を問う

 

 コへレトは、「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」とは、「まことに人間にとって、日の下で労する彼のすべての労苦と 心の追い求めに何があるのか?」(西村俊昭)と訳されます。つまり、「心の苦しみ」とは、何を「追い求め」ている、心の動きそのものを言い表しています。

 

 コへレトは、ここで、114節で、「風を追うようなこと」と言うところを、「心」と言いかえています。それは、人間の心をとらえがたく、また、理解しがたいことを暗に言っているように思えます。

 

 じっさい、わたしたちは、「心の苦しみ」痛みを覚えつつ、その痛みを解きほぐすことができません。しかし、「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(詩編139編23節)との祈りに導かれていくとき、わたしたちは、コへレト同様に、心の煩い、労苦の空しさを、わたしたちの心を知っておられる創造主なる神に、心から、真剣に、問いかけるのです。

 

2・主イエス・キリストの約束される労苦の実り

 

 このように、“神に聞く”ことは、時に、自分の心に真剣に向き合うことと一つです。それは、単なる自問自答でも、内省でもなく、神の命と光の中で、自分の存在理由を問うことです。

 

 主イエス・キリストは、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ438節)と言いました。それは、“神に聞く”ことには、必ず、一つの結果:救いの実りが伴うことを教えています。

 

 それではどうして、その労苦は、しばしば、試練として、わきまえなくてはならないのでしょうか。それは、なお、世の罪、悪魔の誘惑があり、内にも、罪の弱さがあり、肉体も弱いからです(ヤコブ1章2節、ペトロ一58節、マルコ1432節、コリント二129節)。

 

3・キリストの贖いゆえの労苦から希望を抱く

 

 使徒パウロは、「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。」(コリント一411,12節)と言い、コリントの教会のある人たちの高慢をたしなめがら、自身の労苦を証しました。

 

 そして、ローマの教会には、ほんとうの誇りは、苦難をも誇りとすること、と伝えました。それは、キリストの血によって神と和解した者への“現実的教え”です。苦難・忍耐・練達(経験:品性)・希望という、“祈りの道”は、ただ主キリストの命における、試練の中で練り清められ、“神に聞く”祈りへと導かれる、真実なものです。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」(ヘブライ1039節)と信じ、あらゆる罪と誘惑と試練の中で、聖霊の導きによって、主を喜びつつ歩みましょう。

 

 

 

 

 

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