4月15日礼拝音声

4月8日礼拝音声

 

2018415日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。   コへレトの言葉3章1節

 

時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。                   エフェソの信徒への手紙5章1617

 

 

 

1 コへレトは、人生の「空しさ」を問いかけるとき、絶えず、「日」を造られた神の支配の中で、人間に与えられた「知恵」「知識」「快楽」「労苦」をよりどころにしながら、そのすべてにおいて、神が神であることの前に、人生のはかなさを覚えつつ、神の与えてくださる賜物を享受する、一つの知恵、思慮分別を明らかにしています。

 

 その知恵、思慮分別とは、「何事にも時がある」ということです。しかし、これは、決して、運命論、宿命論、偶然論の中に、自分の人生を逃避させることではなく、むしろ、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ことを、天地を造られた神のよき導きと信じることを意味しています。

 

 ここで、問題になることは、人間はしばしば、物事が変わらない前提で、人生を問うことです。コへレト自身も、「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代が過ぎればまた一代が起こり 永遠に絶えるのは大地」(134節)と言い、人間のはかなさを支える、変わらないものに目を留めました。

 

2 しかし、神はご自身、永遠、不変、無限の方でありながら、その御業においては、よい変化をわたしたちの生涯に与えてくださっています。子どもの成長、大人の成熟、そして、老いることの中でも、わたしたちは、霊的に成長していくよい機会を与えられています。

 

 コへレトが言う、「時」とはこの意味で、「時期」「季節」と訳される言葉で、「すべて定められた時」とは、「神の備えられた良き機会」という意味です。

 

 聖書の教えを理解する出発点となる教理に、神の聖定と予定があります。それは、神が、すべての世界を良きものとして造られたことを信じるとき、御子イエス・キリストの受難と復活の御業において成し遂げられた、神の贖いと救いの御業が、神の永遠の定めの中で実現したことを信じることへと導かれる、聖書の基礎となる教えです。

 

3 アダムにおいて堕落し、罪に陥った人間は、この神の定めを、運命論、宿命論、偶然論にして、自他を責め、あるいは、人生を諦め、時を支配しておられる神を認めるよりも、人の言葉によりたのみます。しかし、当然ながら、そこに、主を信じ、主を喜ぶ、思いを生じることはありません。

 

 イエス・キリストは、思い煩いをいましめつつ、こう言われました。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイによる福音書6章2729節)

 

4 それでは、わたしたちは、何を第一に求めたら良いのでしょうか。主イエスが言われたとおりです。「何よりもまず、神の国(支配、良き備え、良き機会)と神の義(律法、命、喜び)を求めなさい。」その約束は、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(同33節)

 

 使徒パウロは、「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」と誡めつつ、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と命じます。それは、「キリストと共に復活させられ、上にあるものを求め」(コロサイの信徒への手紙3章1節)者とに変えられ、「あなたの罪はゆるされた」との無罪宣告を受け、神の御前に立つ者とされた者たちすべてにあたられた、命の道です。ここで求められることは、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」という、霊的な、思慮分別です。

 

結 そして、思い起こすべきことは、キリストの復活命令であり、キリストの光に立ち帰ることそのものです。つまり、復活信仰こそ、キリスト者すべての本当の自己吟味・思慮分別・知恵のよりどころなのです 神賛美こそ、神礼拝の基本的内容です(十戒における第一戒、主の祈りにおける第一の祈願)。それは、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」と言われるとおりに、日常の言動のすべてを支配するものです。なお残る、罪の思いは、これを嫌い、反抗しますが、聖霊の助けと導きの中で、「時(神が備えられたよい機会)をよく用いなさい」との命令に、すべてをよきに変えられる、復活信仰によって、従っていきましょう。

 

 

 

201848日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

神は、善人と認めた人に知恵と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとして、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

 

                                コへレトの言葉226

 

(主イエスは)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。・・」

 

                              ヨハネによる福音書2022

 

1・ご自身の民を一つにされる、主イエス・キリスト

 

 主イエス・キリストは、使徒信条において、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と告白されるように、まことのさばき主として、すでにと地上の聖徒たち(生ける者)と、主のもとに召された天上の聖徒たち(死ねる者)を一つに、ご自身の民を、集めてくださるお方です(テサロニケ一4章14節)。

 

 しかしながら、この神のさばきを、わたしたち人間は、しばしば、ばくぜんと、善人と悪人にさばかれる、と理解しがちです。そして、ことさらに、そのような正しい神を、「嫌い」、そして、自他を「嫌う」傾向をもっています。

 

2・コへレトの言う「善人」と「悪人」とは?

 

 コへレトも、「善人」と「悪人」と言いますが、それは、世の神観を導入しているのではく、むしろ、「善人」は、道徳的な意味で善人というよりも、「神に恵まれた、喜ばれる人」のことを言っています。ですから、「悪人」も、ただ道徳的に悪い人ではなく、神ではなく、富(マモン、転じて、悪魔)に希望を置く人のことです。

 

 ですから、神に善人と認められた人は、神ご自身をただ恵みによって享受(エンジョイ)する人であって、それは、決して、努力の結果ではないのです。限定的に、罪を犯した“罪人は愚か者”、と、世は言うのですが、コへレトは、“神の御前に愚か者こそが、「悪人」(罪人、過つもの)”というのです。

 

 ここに、わたしたち神に造られた人間であり、アダムの罪(原罪)ゆえに、罪に陥り、堕落した、人間の罪観の本末転倒した思い込みと、聖書の教える罪観の啓示(恵みによって受け入れること)があります。

 

3・世から「罪人」「愚か者」して捨てられた、主イエスの十字架

 

 イエス・キリストの十字架刑死は、世において、「罪人」「愚か者」とされ、捨てられた人が、じつは、罪人の身代わりとなられた、神の御子であったことを告げるものです。それは、良いことをすれば、神が喜んでくれ、悪いをことしたら、神は喜ばれない、というありがちな、じっさいに、わたしたちが受けてきたかもしれない、言わば、宗教的道徳観・教育観の限界を、わたしたちに指し示しています。

 

 少なくとも、主イエスの弟子たちに対するあり方は、ご自身の十字架と復活・昇天を前にして、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネによる福音書13章1節)のであり、弟子たちが十字架を前にして、皆、逃げ去ることをご存知でありながら、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネによる福音書1336節)と言われるように、ご自身の御心を実現されることに、その思いは絶えず向けられています。

 

結・主の福音を告げる使徒的教会の使命

 

 そして、主イエスは、ご自身の復活の日の夕方、ユダヤ人たちを恐れて鍵をかけて一つの家に閉じこもっていた弟子たちに現れ、真ん中に立ち」「あなたがたに平和があるように」と言われ、その手とわき腹(十字架で受けた傷)を示されました。この時、「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。ここに、ただ、神の憐れみによって、罪赦された者として召し出されるただ一つの道があります。世の罪は、富のもとに人々を集めますが、御子イエス・キリストにおいて示された、神の憐れみは、十字架の主もとに、“本当の”「罪人」「愚か者」を集めてくださるのです。

 

 そして、主イエスは、弟子たちを派遣を宣言され、聖霊の息を与えてくださったのです。「だれの罪でも、・・」とは、この意味で、神お一人にしかなし得ない、罪の赦すという権限を、「十字架の言葉(ことば)」(コリント第一1章18節)、「神がすでに聖書の中で預言者をとおして約束された」「御子に関する」(ローマ123節)福音を告げること(教会訓練・戒規)にあるのです。

 

 

 

201841日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。              エゼキエル書3713

 

 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。・・」                    マルコによる福音書166

 

 

 

1 聖書に書いてあるとおり、復活された、主イエス・キリスト

 

    今日は、主の復活を記念する礼拝日:イースターです。キリスト教会の礼拝は、この主イエス・キリストの復活日以来、一週のはじめの日、日曜日に礼拝を守るように変えられました。聖書に書いてあるとおり、主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活されました。その日の出来事を、四福音書が伝えています。もし、主イエス・キリストが復活されなかったら、十字架の悲惨の中に、わたしたちは沈み込み、悲しんでばかりのことになってしまいます。けれども、主イエス・キリストは、事実、死者の中から、復活されたのです。その決定的な一つの証拠が、“空の墓”の事実です。

 

2 愛のささげものをささげる時にこそ、主は働かれる

 

 復活の日の朝、それは「安息日の終わる」時でした。この時に合わせるように、主の遺体は、アリマタヤのヨセフの手によって、亜麻布で巻かれ、墓に葬られました。その墓は、「岩を掘って作った墓」で「墓の入り口には石」が転がしてありました。この一部始終を、マグダラのマリヤともう一人のマリヤ(ヨセまたはヤコブの母マリヤ)は、「目つめ」ていました。「イエスに油の塗りに行くために香料を買った」とは、当時、ユダヤ人の埋葬の習慣においては、防腐措置はなく、アリマタヤのヨセフ同様に、二人のマリヤの愛のささげものです。愛の献身は、一度の機会を逃さないものです。今日、この日、この時に、わたしたちの献身も、真実で、適切なものでありたい、と願います。

 

 しかし、この婦人たちの献身は、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合うほどに、一途な思いの中で遂行されています。ところが、婦人たちの思いを超えて、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」のです。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」のです。

 

3 深い恐れの中で、主イエス・キリストの復活の事実を知る

 

 若者(御使い)は言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。・・」と。マルコによる福音書はこの事実を知った婦人たちの恐れをもって終わっています。それは、他の福音書にはない、深い心の痛手と悲惨と失望の中で、「震え上がり、正気を失って」「だれにも言わなかった」「恐ろしかった」と、最初の気持ちをそのままに伝える、貴重な証言です。

 

 主イエス・キリストの十字架が「わたしたちの罪のため」であり、復活も、そうです。ならば、わたしたちにとって、死の意味は、大きく変わったことになります。「墓から引き上げられるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知ることになる」との預言者エゼキエルの御言葉は、主イエス・キリストの復活を信じる者たちの魂において、命を与えられる時、「イエスの命がこの体に現れるために」「イエスの死を体にまとって」生きるのです(コリントの信徒への手紙二4章11節)。今日、わたしたちも、深い恐れと感謝と喜びをもって、主の復活を信じ、生ける主キリストの御前に、共に、神礼拝をささげましょう。

 

 

 

 

 

2018325日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。イザヤ書536

 

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」マルコによる福音書1421

 

 

序・主イエスの深い悲しみの中で コへレトは、「人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること」(コへレト224節)と言い、神からの祝福と賜物によって、自分自身の食欲、霊的満足を与えられることを、神の創造の目的に適う、「良いこと」と告白しました。

 

 それを正反対のことが、主イエスの口からユダに向かって言われます。それは、決して、ユダの裏切りをねたんでユダを悪く言う言葉ではなく、人間に命を与えられる神、キリストご自身の深い後悔であり、ユダの存在そのものを、御心に適うものではない、と言うことができる(被造物である人間はむしろ、神に与えられた人生・命・結婚・家族を尊ぶべきです!)、ただお一人のお方の言葉です。

 

1・主イエスの備えられた「過越の食事」 この意味で、最後の晩餐としばしば呼ばれる、主イエスと十二弟子の「過越の食事」は、相当の部分において形骸化・慣習化したものでありながら、その魂を満たすお方である、主イエス御自身の備えられた、特別な会食です。そして、ご自身の贖われた群れ(教会)のために、ご自身の十字架の死と復活を記念し、ご自身の再び来られる日に備えて、ご自身が共におられることを信じて(リアルプレゼンス)守る、聖餐制定の備えと言う意味で、主の深い憐れみによる恵みの礼典(サクラメント)の内実を問う、非常に大切な御言葉と言うことができます。 

 

 主イエス・キリストは、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ157節)と言われるほどに、ご自身の贖われた民一人一人の救いをご自身の栄光、喜びとしてくださるお方です。

 

2・サタン(悪魔)のふるいにかけられた十二弟子を守られた主イエス しかし、この悔い改めの意味を、十二弟子はだれ一人として分かっていた訳ではありません。それが分かるまでには、少なくとも、聖霊降臨の日を待たなければなりませんでした。ましてや、主イエスは、ペトロに「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ2232節)と言われるほどに、ユダの裏切りが、サタンの願いを神が許容されたことを知りながら、十二弟子が、ご自身の教会(エクレシア)が、一つの兄弟(神の家族)として、新しい力を与えられて、ご自身によって、世に派遣されていくことを祈っておられます。

 

 わたしたちが、ユダの裏切りから教えられることは、神の備えられた計画の実現の中で、ユダ一人を罪悪視することではなく、むしろ、十二弟子皆が、ふるいにかけられ、強い誘惑と危険の中で、主イエスの十字架を前にして、皆が、主を見捨てながらも、主は弟子たちを見捨てられず、かえって、ご自身の復活・昇天・聖霊降臨の日に備えておられる、という、主の備えそのものです。

 

 もちろん、ユダの罪責そのものは、決して、神の計画ゆえに軽減されるものではありません。しかし、主の深い憐れみにおいて、少なくとも、主イエスのゲツセマネの祈りの言葉「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(マルコ1434節)の中に、ご自身の祈りおいて任命され、「悪霊を追い出す権能を持たせ」(マルコ315節)た十二弟子の一人、ユダの離反という一過程が覚えられないはずはないのです。

 

3・「聖書の言葉は実現しなけれならなかった」 この聖書の言葉は、実現しなければならなかった」(使徒116節)との聖霊降臨を待つ、兄弟たちが祈りを一つにしていた時の証こそ、神の契約の実現を証しする、主の晩餐(聖餐)への備えそのものです。今、わたしたちは、この最後の晩餐を、最初の礼典として信じることができます。それは、主イエス自ら制定された、恵みの礼典であり、ご自身の贖いにおいて、わたしたちが一つの群れとされていることを証しする最高の機会です。イースター礼拝に備えつつ、祈りの「魂」を一つにしましょう(詩編133編、コリント一12章)。

 

 

 

 

20183月11日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され わたしの魂は慰めを受け入れません。             詩編773

 

ところが実際は、彼ら(信仰によって生きた証人たち)は更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。             ヘブライ人への手紙1116

 

序・わたしたちの苦しみを担われた主と共に

 

 今日は、男山教会一日修養会です。また、東日本大震災から7年目の日です。人生のどのような苦しみの中でも、御子イエス・キリストの十字架の苦しみをもって、わたしたちの苦しみをご自身のものとされた主と共に、忍耐しつつ、祈ることへと導かれていきます。

 

1・「苦難の襲うとき」その日、その時に、主を求めて祈る

 

 詩編77編は、「苦難の襲うとき」と言い、それが、不意に、また、受けざるを得ないものであることを強調します。そして、「わたしは主を求めます」と告白します。しかし、この時、「夜、わたしの手は疲れも知らず」、主に向かって、「差し出され」続けるのですが、「わたしの魂は慰めを受け入れません」と告白されます。ここに、わたしたち人間の弱さと、神の深い同情、憐れみの中で、ささげられる祈りであることをを知ることができます。苦難の日、多くの場合、わたしたちは、それまで頼っていたものを失い、心を傾ける領域が狭くなります。この時、信仰の本質が大いに試され、また、明らかにされるのです。

 

 7~10節「夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。『主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。』」(新改訳2017、表題を1節に数えないため、新共同訳の箇所を記す)ここには、苦難の日、深い失望と痛みの中で、しばしば、生じる思いは、主なる神の定められた時に対する執拗な問い(うたがい)と訴えです。それは、自分の内心を探り、主への訴えの純粋さを求める祈りと一つとされることと求めるものです。

 

2・目に見える変化よりも、主の御業を思い起こす

 

 そして、わたしたちがどれほど、自分の内心を追求し、神を求めるとき、「私が弱り果てたのはいと高き方(神)の右の手が変わったからだ」(11節)とまで、断言するのです。しかしこのうたがいの底から、再び、心が立ち上がっていくとき、思い起こされるのは、主なる神の変わることのない御業、出エジプトの救いの御業です。「あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民ヤコブとヨセフの子らを」(16節)それは、水の中に、道が開かれる仕方で、成し遂げられた、救いの御業です。

 

 震災の日に、わたしたちは、自然の変化を恐れます。しかし、同時に、人間が手を加えたもの(自然界にない放射線による汚染)が返って、住居を奪い続けている現実は、わたしたちに何を問いかけているでしょうか。堕落ゆえの罪と悲惨は、わたしたちの思いよりも、ずっと根深いものとして、人間社会のただ中に横たわっているのでは、と思います。

 

3・信仰によって、天の故郷を望む

 

 ヘブライ人への手紙11章は、「信仰によって」生きた人たちの証を連ねつつ、わたしたちにそれらの人たちと共におられた神に目を向けさせ、忍耐の中で、信仰によって、希望を抱くこと、「天の故郷」を求めて生きることへと導きます。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)。主イエスがすでに成し遂げられた、十字架と復活・昇天を信じ、様々な悲惨と苦しみの中にある、すべての人々のために、「信仰と希望と愛」(コリント一13章)を求めて、主の再び来られる日を信じて、真心から祈りをささげましょう。

 

 

 

201834日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

 

                            コへレトの言葉2章23

 

あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。                    コリントの信徒への手紙二1章7節

 

 

 

1・すべての人の痛みと悩みを知っておられる主(契約の神)

 

 コへレトは、人の労苦が、一生、日夜、その心を痛め、悩ませることを認め、その空しさを問います。詩編でも「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯はどれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟るように。」 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。」(詩編39編6節)とあり、一生、生涯のはかなさを、主の御前に告白します(詩編90編9,10節)。

 

 しかしながら、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」(出エジプト記3章7節)と、主なる神は、モーセに言われて、エジプトの苦役の中にあるイスラエルの人々を救い出し、ご自身の契約と誓いのゆえに、カナンの地に導かれることを示されます。そこには、人々の苦難と痛みを、主なる神が、ご存知であることを知ることができます。

 

 苦難の中で、ヨブは、「人は死んでしまえば もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから 交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。呼んでください、わたしはお答えします。御手の業であるわたしを尋ね求めてください。」(ヨブ141415節)と言いました。それは、自暴自棄になって発せられた言葉ではなく、かえって、主なる神において与えられた命であり、陰府(よみ)死後の世界もまた主の支配の中にあるとの、「信仰」から出た言葉です。

 

2・復活の主の慰めを共にする時

 

 復活の主イエス・キリストにおいて「最後の敵として、死が滅ぼ」(コリント一1526節)してくださり、「死は勝利にのみ込まれ」(同1554節)ました。ここに、わたしたちが、死後の世界を陰府としていたずらに恐れることのない、ただ一つの理由があります。使徒パウロは、死の危険と苦難の中で、この主と共にある慰めを伝えています。

 

 そして、「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(コリント二1章9節)と伝えるのです。それは、生けるまことの神が、苦難の中で生きて働いておられる神であり、この神の働きに、パウロは、主の復活の御業を見ています。だからこそ、パウロにとって、苦難は、慰め(力強い励まし、力添え)を共にすることであると伝えます。

 

3・命の所有者でいます、主なる神に、人生:一生:生涯の目的を問う

 

 ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、わたしたちのただ一つの慰めは、わたしがわたし自身のものではなく、わたしは真実の救い主イエス・キリストのものです」と告白します。また、ウェストミンスター小教理問答は、その問いの初めに、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白します。人生のさまざな憂い、悲しみ、苦難の中で、わたしたちが、失望、落胆することなく、神の御前に生きるとき、人の命はだれのものか、人は何のために生きるのか、その問いが際だって明らかにされていきます。この問いを絶えず主の御前に祈り求めつつ、信仰の道を共に歩みましょう。

 

 

 

 

 

2018225日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。

 

                             コへレトの言葉2章22

 

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 ローマの信徒への手紙5章3,4節

 

序・神の声を聞くという「労苦」

 

 主イエス・キリストは、ご自身を捜し求めて来た人々に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ627節)と命じ、教えられました。それは、わたしたちに本当の労苦とは、“神に聞く”ためであることを示します。 

 

1・創造主なる神に、「心の追求するもの:苦しみ」を問う

 

 コへレトは、「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」とは、「まことに人間にとって、日の下で労する彼のすべての労苦と 心の追い求めに何があるのか?」(西村俊昭)と訳されます。つまり、「心の苦しみ」とは、何を「追い求め」ている、心の動きそのものを言い表しています。

 

 コへレトは、ここで、114節で、「風を追うようなこと」と言うところを、「心」と言いかえています。それは、人間の心をとらえがたく、また、理解しがたいことを暗に言っているように思えます。

 

 じっさい、わたしたちは、「心の苦しみ」痛みを覚えつつ、その痛みを解きほぐすことができません。しかし、「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(詩編139編23節)との祈りに導かれていくとき、わたしたちは、コへレト同様に、心の煩い、労苦の空しさを、わたしたちの心を知っておられる創造主なる神に、心から、真剣に、問いかけるのです。

 

2・主イエス・キリストの約束される労苦の実り

 

 このように、“神に聞く”ことは、時に、自分の心に真剣に向き合うことと一つです。それは、単なる自問自答でも、内省でもなく、神の命と光の中で、自分の存在理由を問うことです。

 

 主イエス・キリストは、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ438節)と言いました。それは、“神に聞く”ことには、必ず、一つの結果:救いの実りが伴うことを教えています。

 

 それではどうして、その労苦は、しばしば、試練として、わきまえなくてはならないのでしょうか。それは、なお、世の罪、悪魔の誘惑があり、内にも、罪の弱さがあり、肉体も弱いからです(ヤコブ1章2節、ペトロ一58節、マルコ1432節、コリント二129節)。

 

3・キリストの贖いゆえの労苦から希望を抱く

 

 使徒パウロは、「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。」(コリント一411,12節)と言い、コリントの教会のある人たちの高慢をたしなめがら、自身の労苦を証しました。

 

 そして、ローマの教会には、ほんとうの誇りは、苦難をも誇りとすること、と伝えました。それは、キリストの血によって神と和解した者への“現実的教え”です。苦難・忍耐・練達(経験:品性)・希望という、“祈りの道”は、ただ主キリストの命における、試練の中で練り清められ、“神に聞く”祈りへと導かれる、真実なものです。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」(ヘブライ1039節)と信じ、あらゆる罪と誘惑と試練の中で、聖霊の導きによって、主を喜びつつ歩みましょう。

 

 

 

 

 

2018218日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 

 

知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。      コへレトの言葉2章21節

 

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。                     マルコによる福音書10章22節

 

 

 

序・主によって贖われた命を共にする「教会(エクレシア:神に召し集められた群れ)」

 

 天地を造られた神は、わたしたち一人一人に命を与え、御子イエス・キリストにある贖いの命を与え、導いておられる主です。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23編6節)との歌をささげるために、今、わたしたちは、何を求めることが大切でしょうか。

 

1・人生の尺度を「知恵と知識と才能」に求めても残る「空しさ」

 

 コへレトは、その客観的は手がかりを、「知恵と知識と才能」に求めます。それは、今日の知恵と似ています。学歴社会、競争社会、能力主義、等々、わたしたちは、自分で努力して身に着けたもののみならず、他者に勝ること、を、客観的に(?)計られて、それぞれの持ち場に配置されている感があるかもしれません。

 

 しかしながら、「人間本性の深いところには、神がくださる喜びをそのまま率直に受け取ろうとしない傾向がひそんでいるのであり、そして、自分自身でつくり出した喜びをこそ慕い憧れるという、注目すべき傾向があるのです。あきらかに、人間は与えられる喜びよりも、かちとる喜びを好むのです」(リュティー)。

 

 このことは、人間は、弱さや負い目等を埋め合わせる、誇り・取り柄・価値等を追求している存在と言い換えることができるかもしれません。生活の知恵、経験の知恵、正直という美徳、勤勉という美徳、等々が、わたしたちの誇りを支えようとします。それは、もちろん、尊ばれるべきものであり、良いことではあります。しかし、コへレトは、死をもって、それらが、後世の人々への「遺産」「分け前」とされることを強いられることに、「空しさ」を覚え、「不幸」「悪い」(口語訳)と言い、満たされない事実を告白します。

 

2・真に救われて生きるために不可欠なお方=十字架の主イエス・キリスト

 

 イエス・キリストから、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々の施しなさい。」と命じられた青年は、落胆し、悲しみながら、主イエスのもとを立ち去ります。それは、放蕩息子のたとえ話(ルカによる福音書15章11~32節)において、弟の帰りを父親と一緒に喜ぶことのできなかった、兄の態度に重なります。

 

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と、主イエスは、この青年に寄せた深い同情を明らかにします。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」のです。弟子たちは、この言葉の真意を知り、「それでは、だれが救われるだろうか」と互いに言いました。主イエスは、「人間にできることではないが、神にはできる」と言われ、罪人の救いは、人間の功績によらず、まったく神の恵みにより、全能の神の御業によって、神の国に入る、永遠のいのちを与えられることを明らかにされます。

 

結・復活と命の主=キリストを知る者に与えられる「永遠の喜び」

 

 それは、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」仕方で、明らかになる、神の業です。神の恵みは、ただ、十字架の死と復活の主キリストにおいて、信仰によって、神の子とされた者たちに継承されることにおいて、人の罪と死ゆえの「不幸」は、「永遠の喜び」に変えられるのです。(コリント一6章10節、1550節、ヘブライ915節、ヤコブ5章5節、ペトロ一1章4節、3章7節、3章9節、ヨハネ黙示録21章7節)

 

 

 

 

2018211日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

万軍の主の言葉が臨んだ。「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。」          ゼカリヤ書812

 

イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」                                

 

                           ルカによる福音書2025

 

序・教会と国家の主は、イエス・キリスト

 

 日本のキリスト者にとって、建国記念の日(1966年制定)が、信教の自由を守る日としてとくに霊的戦いの日であることは、日本伝道における試練と言うことができます。主の支配している歴史の中で、国家と福音宣教と教会の在り方は、為政者の悪い統治:支配:偶像礼拝においてとくに傾向を顕著にしています。教会と国家の主は、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、主イエス・キリスト御自身であることを、今日も、確かに覚えつつ、すべての人のため:為政者のために、主の憐れみと福音のもとへ導かれるように、祈りをささげましょう。(テモテへの手紙一 2章1節) 

 

1・神の民:教会の霊的回復の終末的預言

 

 預言者ゼカリヤは、バビロンから帰還した、イスラエルの人々に、主からの激しい憤りと熱情を告げました。それは、人々の悪事への裁きではなく、むしろ、主が、イスラエルの人々の帰還と、神殿再建に、激しい熱情を注いでおられることを告げるものです。教会は、聖霊降臨の火をもって、福音宣教の日と告げたように、絶えず、「怠らずに励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマ1211節)と命じられる霊的共同体です。教会の霊的回復は、高齢者、幼い者、弱き者、さげすまれた者たちの憩いとなって現れます。それは、高齢化がなにかと将来にたいする不安を結びつく、今を生きる教会:社会にとって、大きな福音であり希望の預言です。「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマ1417節)なのです。

 

2・わたしたちの霊的選択の秘訣:目を覚まして祈るために

 

 主イエスは、当時の宗教的指導者たちから、その言葉じりをとらえて、「総督の支配と権力に」渡すことを企てられます。じっさい、十字架の死は、主の定められた時に、敵の手に引き渡され、ポンテオ・ピラトのもとで裁かれる過程を経ることになります。しかしながら、この時は、主イエスは、是非をいずれに答えても罠に陥れる、「彼らのたくらみを見抜いて」「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」と問いかけ、彼らが、「皇帝のものです」と言うと、主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と命じ、魂胆を封鎖します。

 

 わたしたちも、時に、「あれか、これか」で悩むことがあるからもしれません。このような時、思い煩いの誘惑と罠(わな)から逃れて、すぐに、主のもとに来ることが大事です。ほんとうの信仰は、あらゆる対立的な選択を、神の目の前に明らかにする秘訣そのものです。神の御前における敬虔で謙そんな祈りなしくして、主の誠実に応えて生きることはできないのです。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。」(ヤコブ3章17節)

 

3・主の十字架の贖いの代価を信じ、献身する

 主イエスは「盗んではならない」と命じられた、律法の主、すべての所有の源であるお方です。罪の代価を返せる人は一人もいません。かえって、主イエス・キリストの十字架の贖いのみが、すべての人の罪の代価を支払って余りある、大いなる恩寵の代価です。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるように」(ペトロ一245節)生き、献身、祈りましょう。

 

201824日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。

 

                            コへレトの言葉2章20

 

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」              ヨハネの黙示録1413

 

 

 

序・新しい希望の入り口

 

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(ローマの信徒への手紙108節)との御言葉は、わたしたちの口と心に、キリストを迎える時に、生きる力となって働きます。それは、イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活し、天に上げられたゆえに、わたしたちは、このキリストを主と告白する時、罪と死から救われます。それは、決して失望することない、新しい希望への入り口です。

 

1・周囲をあちこち見てさまよいめぐる「むなしさ」

 

 コへレトは、人生のはかなさを問い、労苦の結果を受け入れ難いものとし、憎みます。すでに「わたしコへレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」(112節)と言い、神に造られた一人の人間として、与えられた持ち場に生きてきたことを省みています。わたしたちはだれもが、人生の主とはなりえず、かえって、神の備えられた生涯を生きるのみです。

 

 コへレトは、神の備えられた日の下で、労苦してきたことのすべてに、「私の心を絶望させるように向かった」(西村俊昭訳)と告白します。「私は思いめぐらして、周囲をあちこち見て、さまよいめぐる」(西村俊昭:別訳)あり方こそ、人間の絶望の状態です。

 

 アダムにおいて堕落した人間の一つの特徴は、希望を抱くことよりも、周囲を見て、絶望することに早くなったことにあります。それは、自分の目よりも、他者の目をよりどころとし、その目によって生きることです。親の教育の方向もしばしば、ともすれば、周囲の目を気にして、いたずらに不安になり、子どもの養育においても、しばしば困難・失望を感じることがあります。また、子どもも、大人同様、様々なの価値観のはざまで、自分の本当の価値を見失ってしまいがちです。しかし、「わたしの目にあなたは価高く、貴」いと、呼んでくださる、本当の神のまなざしを知る時、わたしたちは世の価値観から解放され、「光の子」として成長し、歩んでいきます(エフェソ58節)。

 

2・死者の中から復活された“主”によって希望を抱く

 

 使徒パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ55節:「希望は失望に終わることはない」(口語訳)と言い、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ1212節)命じます。それは、ただ聖霊の恵みによって、絶望の淵においても、死者の中から、復活したイエスを“主”と信じ、神の言葉によって望みを抱くように変えられるからです(イザヤ書5523611節、コリント第一15204950節)。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」(コリント第一1558節)と約束されているとおりに、わたしたちは、神のみ業を信じ、見る目と心こそ、肝要です。

 

結・永遠の福音を信じる、今日、「主に結ばれて死ぬ人は幸い」

 

 「永遠の福音」(ヨハネの黙示録146節)を携えてきた天使は、大声で神礼拝を命じます。その時、偶像の国は滅び、全聖徒たちの忍耐と労苦は、「今からの後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」との宣言において報われるのです。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるから」(同1413節)です。たとえ、今日、失意の中、絶望の淵にあっても、その心の底に“主”が共におられます。主イエスを信じましょう。

 

 

 

 

 

2018128日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。・・御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。                     申命記3011.14

 

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。                       ローマの信徒への手紙1017

 

 

 

序・キリストの言葉を聞くことから「始まる」

 

 わたしたちは、言葉を聞くことによって、話し、そして、言葉を読み、聞いたこと、読んだことを、書くように教えられてきました。それは、言葉を習得していく共通の過程です。「信仰は聞くこと、キリストの言葉を聞くこと」から始まる、と言うとき、その第一の関心は、神の恵みによる信仰にあり、第二に、キリストの言葉にあります。

 

1・まことの信仰の「出発点」は、神とキリストにある

 

 モーセは、申命記における説教において、神の戒めは、「難しすぎるもの」でもなく、「遠く及ばぬもの」でもない、と明言します。その理由は、人間の側にあるのではなく、あくまでも、御言葉に聞き従う「口と心」にある、というのです。この神の戒めに聞き従うことの決して困難でないことを聞くと、わたしたちは、罪の自覚と悔い改めの必要を思い起こすかもしれません。しかし、本来、罪の自覚と悔い改めについての、正しい認識は、キリストの福音理解においてなされる必要があります。つまり、それは、第一に、キリストが提供している福音をそのままに受け入れることから「始まる」のです。つまり、まことの信仰は、神の方からの働きかけて「始まる」という、出発点を、わたしたちの伝道・教育の出発点にすることが肝要です。

 

2・キリストの御業を信じる心と口をもって

 

 使徒パウロは、モーセの言う、「だれかが天に昇り・・」「だれかが海のかなたに亘り・・」という、言葉を、キリストの御業についての反逆的告白として物語ります。たしかにそうです。すでに、キリストが十字架に死なれ、三日目に復活されたことを抜きにして、信仰も、律法も、聖書も、教会も、本当の救いと希望、真理を問うことのできる時代ではもはやないのです。そして、モーセの時代も、キリストが一度来られた、今の時代も、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」との真理は変わることがないのです。パウロは、御言葉を、信仰の言葉、キリストの言葉と言いかえ、信仰が与えられるところは、わたしたちの心と口にあることを明らかにします。

 

 このことは、言いかえれば、人間は、一人の人格者として、神との応答関係をいただくとき、心と口をもってする、ということです。神との生きた関係:祈りの交わりは、神の言葉を聞くことから「始まる」のです。

 

3・キリストが律法の終わりとなられたゆえに

 

 今、わたしたちに求められている信仰理解は、神が、ご自身の約束のとおりに、御子イエス・キリストを遣わしてくださった、救いの歴史を知ることです。そして、イエス・キリストが、「掟を守る人は掟によって生きる」ことを、完全に成し遂げてくださったことを信じることです。「キリストは律法の目標(終わり)」です。「信じる者すべてに義をもたらすために」(ローマ104節)。 もし、このキリストの満たされた義を信じない限り、人は、「自分の義」を求めようとして、自己義認(他者を裁くことと同じ)を求め続けることになります。しかし、キリストの義に生きる福音:キリストの言葉を聞くとき、わたしたちは、皆、信仰によって義とされ、自分の心と口で、十字架に死なれ、三日目に復活された、主イエスこそ、まことの救い主と宣べ伝える者とされるのです。「わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。・・・わたしは主 正義を語り、公平を告知する者」(イザヤ書4519節)こそ、キリストです。

 

 

 

2018121日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

主はこう言われる。・・捕らわれ人には、出でよと 闇に住む者には身を現せ、と命じる。                             イザヤ4989

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。       ヨハネによる福音書826

 

 

 

序・神との交わりの中へ導かれる

 

 主イエス・キリストの福音(喜ばしい知らせ)は、今、すべての人に伝えられています。それは、罪と死という神の裁きを負う罪人の解放を告げるものであり、この解放こそ、主が共におられること信じ、相互の祈りの共感が与えられていきます。「わたしたちの交わりは、御父と主イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネ一13節)。

 

1・罪のなわめと呪いの死からの解放を告げる「キリスト預言」

 

 イザヤは、自身に与えられた召命が、世界の人々が知るべき、神の召しによるものであると訴えます。そして、神の召しによって与えられたみことばを語り続けることにおいて、無力感を覚えるほどに、力を尽くしたことを、告白しています。エレミヤも、「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」(エレミヤ書202節)と告白します。それは、みことばの奉仕は、人の業ではなく、はじめから、主があたえられた召しに応えることであることを物語ります。

 

 そして、イザヤは、「母の胎にあるわたし」という言葉を三度繰り返し、神の召しによって、その生涯を定められた者としての役割を明らかにします。それは、幼子イエスを腕に抱き、神の救いを見た老シメオンにおいて預言された言葉です。じつに、イザヤの預言は、イエス・キリストの十字架の苦難(パッション)において実現し、今、この十字架の言葉を聞く者たちは、神の裁きとしての罪の縄目と、律法の呪いとしての死から解放された者として、この福音を告げる者とされます。この時、「支配者の僕とされた者」である、キリストが、ほんとうの支配者であることが、世に明らかにされます。

 

2・“主”イエス・キリストの十字架・復活・昇天の中にある「本当の救い」

 

 イザヤは、さらに、「わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて 民の契約とし、国を再興して 荒廃した嗣業の地を継がせる」と希望の預言を告げました。それは、わたしたち一人一人の救いが、始めから、神の契約と深い憐れみの中にあるものであり、これこそ、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3章18節)という、世界的、歴史的なものであり、また、神の召しと選びにおける、恵み深い契約と憐れみによるものです。

 

 主イエスは、「わたしは去っていく。あなたたちはわたしを捜す(追求)」「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」と言いました。それは、世のキリスト観の多くが、救いに至らない的はずれなものであることを物語っています。「わたしは上のものに属している」と主イエスは言われます。そして、御父から遣わされた者として、十字架・復活・昇天の時に、「わたしはある」という、人の名ではなく、主の名を知ると予告しました。今、わたしたちは、十二弟子たちが、復活の「“主”を見て喜んだ」(ヨハネ2020節)ように、「天に属するその人(イエス)の似姿」(コリント一1549節)となるのです。

 

結・契約の子の初穂となられた御子:イエス(ヨシュア)を信じて祈る

 

 「自分の民を罪から救う」名をもって、イエスと呼ばれます。新しいモーセ、ヨシュアこそ、イエス・キリストです。神の備えられた、恵みの契約の中に、子たちの信仰と希望が、確かに嗣がれることを信じ、共に、主の再び来られる日を待ち望みましょう。

 

 

 

 

2018114日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。                      創世記408

 

「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」   ルカによる福音書233031

 

 

 

序・みことばを宣べ伝える教会の使命

 

 主イエス・キリストから命じられた福音宣教の使命は、「折りが良くても悪くても(時機に適う時もそうでない時も)(テモテ二42節)みことばを宣べ伝えることにあります。「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」(同44節)過ちと危険は、どのような時にもあり得ます。今日も、目を覚まして、みことばに聞きましょう。

 

1・神から与えられた夢を説き明かした、ヨセフ

 

 ヤコブの12人の子の11番目の子で、族長の一人とも呼ばれます。ヨセフは、父ヤコブにかわいがられていただけでなく、自分の束に兄たちの束がひれ伏す夢と、太陽と月と十一の星が自分にひれ伏す夢を見たことを兄弟に伝えます。それは、兄たちを弟ヨセフが支配するというもので、そのために、ヨセフは、ねたまれて、ミディアン人の商人たちによって、イシュマエル人に売られてしまいます(創世記37章)。

 

 「主がヨセフと共におられたので」(392節)、イシュマエル人から宮廷の役人、侍従長ポティファルにヨセフは買われますが、そこで、家の管理、財産のすべてを任されるほど、祝福されます。この時、この主人の妻の誘惑から逃げ、つかまれた着物を残し、それをもとにぬれぎぬを着せられ、主人の怒りを買い、侍従長の家にある監獄に入れられてしまいます。「しかし、主がヨセフと共におられ」(3921節)監獄の囚人は、ヨセフの手にゆだねられます。そして、エジプトの王の給仕役の長と料理役の長が王に過ちを犯し、同じ監獄に入れられます。そして、この「二人」が見た、三本のつるがあるぶどうの木と三個の編んだ籠(かご)の夢を、それぞれ説き明かし、そのとおりに、給仕役の長は、給仕職に復帰するのですが、片や、料理職の長は、木にかけられます(40章)。この二年後、ヨセフの恩を忘れていた給仕役の長が、エジプトの王ファラオの夢の説き明かしを、ヨセフに求め、これを機に、再び、ヨセフは、「宮廷の責任者」(4140節)として、七年間の飢饉に備え、七年間の豊作の年に穀物と整えるのです。そして、これが、ヨセフをエジプトに売った、兄弟たち、父ヤコブとの再会への備えともなるのです(4246章)。

 

2・聖霊なる神の説き明かされる「新しい契約:いのちの言葉」(聖書)

 

 今、わたしたちも、みことばに聞く時、それは、将来への何ものにも代えがたい備えともなります。主イエス・キリストが十字架を負ってゴルコタの丘に向かわれた時、多くの婦人たちが涙を流しました。しかし、それを「生木」である、主イエスはたしなめ、「枯れ木である、民に望む裁きと悲惨こそ嘆くように言われました。主イエスの苦難に同情を寄せることにまさって、主イエスが、わたしたちの本当の苦難に深い慰めを与えてくださるのです。ここに、神の福音を証しする聖書を説き明かされる聖霊の働きがあります。ヨセフが夢を説き明かしを、神の業と信じたように、今、わたしたちも、聖霊なる神が、わたしたちの心と魂に、みことばを説き明かしてくださることを信じましょう。そして、それは、単に、意味を明らかにするのみならず、キリストの贖いの命を与え、わたしたちを罪から救い出す力をもってなされる恵みであることを覚えましょう。「主の方に向き直れば、(心の)覆いは取り去られます。・・これは主の霊の働きによること」(コリントの信徒への手紙二 3章1618節)と祈りつ、望みましょう。

 

 

 

201817日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。              エゼキエル書3章2,3節

 

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。                 コリントの信徒への手紙二3章3

 

序・「みことばに聞く教会」として歩む

 

 主の2018年第一の主日公同礼拝日です。今年度の男山教会の年間標語は、「みことばに聞く教会」(サムエル上310節)です。サムエルのように、すなおに、主の御言葉を聞く備えをしたいと願います。主の御言葉を聞くとは、祈ることでもあります。聖霊を求めつつ、日々、御言葉に聞き従っていきましょう。

 

1・御言葉を「血肉化」される聖霊

 

 エゼキエル(神が強くされる)は、イスラエルの人々が、バビロンの地に連行され、エルサレムを離れた試練の時(紀元前593571)に、立てられたまことの預言者です。

 

エゼキエルは、主から預言者としての召しを与えられた時、「人の子よ」と呼びかけられ、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(210節)が表裏に書かれた巻物を手にした“天の使い”(四つの生き物)の幻を見ます。み使いは、「目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(31節)と命じるのです。それは、言わば、御言葉が、エゼキエルの存在そのものとなるようにしなさい、ということです。御言葉に聞く、とは、聖霊によって、その命の恵みにあずかることです。それは、本当に、御言葉が、肉の糧(食事)と同じように、わたしたちの霊と肉において、「血肉化」されることです(エレミヤ1516節、ヨハネ653節)。

 

2・御言葉を語る、神の砦である教会

 

 主は、エゼキエルに「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。」(34節)と命じます。御言葉に聞く教会は、御言葉を語る教会でもあります。それは、はじめから御言葉は、福音としての使命を果たすものだからです。主は、エゼキエルに「岩より硬いダイヤモンドのような額」(9節)を与えることを約束されたように、教会を、一つの神の砦としてくださり、わたしたちを固く守り、勇気と力を与えてくださいます(エレミヤ118節、イザヤ507節)。

 

 主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」(ヨハネ525節)と言われました。それは、御子イエス・キリスト自ら、わたしたち(罪人:神の選びの民)のために、派遣された者であり、「死から命へ」(同524節)と、召し出してくださる力ある御方であることを明らかにしています。

 

3・キリストの勝利の行進に連なる教会

 

 使徒パウロは、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(コリント二214節)と伝えました。それは、手紙の文脈から逸れて、パウロの熱情と確信から出た言葉です。当時のローマの軍隊を思い起こさせるような言葉は、教会の霊的軍備を物語ります。それは、武力によらず、御言葉によるものです。御子イエス・キリストが子ろばにのって入城されたように、今、わたしたちは、ただ、神の力である福音によって、復活の主イエス・キリストを宣べ伝えます。

 

結・「キリストからの手紙」として“福音”に生きる教会

 

 教会は、キリストからの手紙という公文書です。御言葉が血肉化する時、わたしたちの言動そのものが、主の真実を証ししていることを覚えつつ、御言葉に絶えず立ち帰りつつ、主の御国の進展:伝道に仕えていきましょう(テサロニケ一1510節)。

 

 

 

 

 

20171231日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

島々よ、わたしに聞け 遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。              イザヤ書491

 

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この(あなたの)僕を安らかに去らせてくださいます(平安の中に解放してくださる)。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。・・」                    ルカによる福音書2章29

 

 

 

序・インマヌエルの主と共に祈る一日

 

 年の終わりの主日、インマヌエルの主が共におられる、贖いの恵みの中に、自分とお互いのため、すべての人のために執り成し、祈る一日としてささげたいと願います。

 

1・主なる神の備えの中で

 

 人の子イエスは、生まれて40日間の「清めの期間」(22節)が過ぎた時、主の律法に従って、焼き尽つくす犠牲と贖罪の犠牲として「山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽」(24節)をささげるために、「両親」(22節)によって、エルサレムに連れていかれました(レビ128節)。それは、「割礼」(21節)と同様に、主の律法に服された、主イエスの謙そんで卑しい歩みを物語ります。シメオンが、聖霊に導かれ、神殿の境内に入って来たとき、時を合わせて、幼子イエスと出会い、腕に抱いて、神を賛美し始めます。それは、「主が遣わすメシア(キリスト)に会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)シメオンとイエスの感動的な出会いとなりました。主イエスを知ることは、主の備えられた時において、確実になされる事なのです。

 

2・「贖いの希望」を告げたシメオン

 

 シメオンの賛歌は、ヌンク・ディミティスという聖歌名で呼ばれます。しかし、「今、安らかに死ねる」というよりも、「お言葉どおりに」という、主の言葉への深い信頼にこそ、シメオンが、「正しい人(神の律法を守る)で信仰があつく(神を畏怖する敬虔)、イスラエルの慰められるのを待ち望」(25節)んでいたことの、信仰の具体的な表れです。この意味で、この賛歌が、御子のもたらす福音を告げる預言「これは万民のために整えてくださった救い・・」(31節以下)であることに注意したいと思います。それは、神の召しと選びを信じるとき、私たちの祈りは、御言葉を信じて待つ、忍耐と、「贖いの希望」(カルヴァン)へと導かれることを証しするものです(ローマ115節、ヘブライ1036節)。なぜなら、シメオンは、ただ、御言葉を信じて待つ祈りの中で、ついに、今、この時、主イエスにまみえたからです。

 

3・主イエスの十字架を預言したシメオン

 

 シメオンのマリアへの祝福と預言は、イエスの十字架の苦難と母の心痛を預言するものです。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」(25節)との言葉のとおりに、マリアは、十字架のそばで、イエスの死を見守ります(マタイ2756節「ヤコブとヨセフの母マリア」)。そして、復活の後、聖霊降臨の日には、使徒団の一人として、その群れに加わり、祈りを一つにします(使徒114節「イエスの母」「イエスの兄弟たち」)。

 

 若い時に夫と死別し84歳になっていたアンナも、さげすまれたアシェル族の出身ながら、「女預言者」(36節)としての召しに従い、神殿で祈りに専心していました。羊飼いたち、シメオン、同様に、幼子イエスのことを「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆」(38節)に伝えました。

 

結・主の大いなる贖いの日を信じ、教会の霊的再建を望む

 

 「見よ、わたしが国々に向かって手を上げ 諸国の民に向かって旗を揚げると 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き、あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来るる」(イザヤ4922節)の御言葉のとおりに、主の救いは、幼子イエスと、シメオンとアンナの会合のように、契約の家、教会と家庭の救いを、今日、新たに信じましょう。

 

 

 

 

20171224日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の方にある。                イザヤ章95

 

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。マタイによる福音書123

 

 

 

序・万民の救い主・教会の頭(かしら)、イエス・キリストの誕生

 

 イエス・キリストの誕生は、聖書において、単なる歴史的事実のみならず、神の主権的なご計画の実現として物語られ、神の備えられた恵みとして証しされています。それは、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ11節)において、イエス・キリストが、まぎれもなく、神の契約において生まれた子であり、イエス・キリストが生まれた目的である、十字架の死において罪を贖われ、神の子とされ、神に召し集められた教会(エクレシア)の頭であることを証するものです。

 

1・ダビデの王座の体現者、イエス・キリストの誕生

 

 預言者イザヤは、アッシリヤ帝国に脅かされるイスラエルの人々に向かって、かつて、主なる神がギデオンを立て、ミディアン人に打ち勝ったように(士師記6、7章)、主の民が勝利する日の来ることを告げます。そして、この勝利は、「ダビデの王座とその王国に権威は増し」(イザヤ9章6節)と約束されるとおりに、ダビデ契約(サムエル下7章12~16節)において約束された、ダビデとその子孫の祝福とともに、その王国の永続的祝福が約束されます。

 

 地上の王国の歩みは、ソロモン王の後、アッシリヤ帝国、バビロニア帝国の台頭の中で、二王国分裂、滅亡を経て、70年のバビロンへの捕囚の帰還を経た後、エルサレムへの帰還の後、預言者マラキをもって、旧約時代の啓示は終息します。

 

2・神との和解の道を開かれた、イエス・キリストの誕生

 

 四福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)の物語る、神の啓示は、イエス・キリストの誕生を預言的に告げることに集中しています。それは、イエス・キリストの誕生が、はじめから、神があらかじめ約束された救い主の誕生であり、永遠の神の独り子の降誕、受肉、派遣であることを明白に告げるものです。

 

 このイエス・キリストに与えられた「権威」は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ95節)の御名をもって明らかにされ、その御名のとおりに、御子は、「インマヌエル」「神、我らと共にいます」という御名においても、証しされるとおりに、罪人を神と和解させるため、ご自身みずから、永遠の栄光に固執せず、十字架を負い、その身を唯一の完全な犠牲(いけにえ)としてささげることにおいて、神の永遠の聖定(深い熟慮によるご意志)を成し遂げてくださったのです。 

 

結・イエス・キリストの恵みの中を、生涯、歩むために

 

 この喜ばしいおとずれ(神の福音)を聞く、わたしたち一人一人に求められていることは、イエス・キリストを、唯一の罪からの救い主と信じ、神と和解して生きることです。神との和解は、御言葉に聞き、祈り、霊の交わりを一つにするところ(主日・家庭・個人礼拝)に、最もよく表されます。洗礼(式)と聖餐(式:主の晩餐)は、恵みの契約の中に、わたしたちの信仰と教会があることをしるします。主の2017年は、宗教改革500年を記念する年です。この記念の年、単なる想起にとどまらず、絶えず、教会の歴史の中に、わたしたち男山教会の歴史もあることを信じ、主イエス・キリストが再び来られる日まで、御言葉と共に働く聖霊の恵みによって、新しく生まれた神の子として、「わたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠に あなたの王座につく者となる」(詩編13212節)ことを信じ、すべての人のため、祈りましょう。

 

 

 

20171217日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。

 

                               イザヤ書92

 

 言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 ヨハネによる福音書149

 

 

 

序・わたしたちのささげる礼拝の唯一の源泉

 

 ヨハネによる福音書は、創世記(1章)と呼応するように、「言(ホ・ロゴス)」という御名において、御子イエス・キリストの永遠性とともに、その人格と御業を明らかにします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(114節)との、御子の受肉は、御子の生誕・降誕のもっとも神秘的かつ神学的な表明です(ヘブライ1章)。

 

1・「闇から光が輝き出よ」

 

 言葉は、本来、人間と人間の間では、意志伝達(コミュニケーション)の手段であるだけでなく、感情表現、内面的な思い、祈りの感情をも含む、全人格的なものです。イエス・キリストが「言」なる御方として啓示されていることは、この御方が、わたしたちに、その全人格を指し出してくださり、この御方を通して、まことの神を知ることができることを証ししています。じつに、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(118節)のです。

 

 使徒パウロは、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリントの信徒への手紙二46節)と言い、人間(パーソン)に、人格的(パーソナル)に、神が、語りかけ、御子による命を、再創造してくださることが証しされています。「たったおひとりの神さまは、そのまっくらやみに向かってね、『光よ、ひかれ!』とおっしゃったんです。すると、まあ、どうでしょう!くらやみに、パアーッと光がさしこんできました。」(『長岡輝子の聖書ものがたり』8頁:せかいのはじまり)との言葉も、使徒ヨハネ、パウロ、同様に(!)、御子の命を内にいただいて、「『こどもの心にわかりやすく聖書を伝えたい』、そんな想いから」(同著まえがき)、決して控えめではなく、大胆かつ明確に、神の御業が宣べ伝えてられています。

 

2・神の変わることのない生きた言葉による「新生:再創造」

 

 イエス・キリストの光は、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(19節)のです。それは、わたしたちの心、たましいの内に、輝き出す、救いの光を与えるものです。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ35節)のです。この再創造・霊的新生こそ、御子の光のなしてくださる救いの御業です。

 

 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ペトロの手紙一123節)との御言葉のとおりに、今、キリストの言葉:命の言葉を聞く、一人一人の内に、全人格的に臨み、そして、わたしたちを、「大牧者(イエス・キリスト)がお見えになるとき・・しぼむことのない栄冠を受ける」(同54節)備えを与えてくださるのです。

 

結・わたしたちの本当の希望は、ここにある

 

 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言は認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ11011節)と言い、わたしたちの住む環境の実相と、神の再創造という、霊的真実(ヨハネ13節)を知ることとの深い断絶:闇が、明らかにされています。御子の受肉・十字架と復活・昇天の内に、命の光と希望を心にいただく人は、なんと幸いなことでしょうか(ヨハネ1125節)。

 

 

 

20171210日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 

                               イザヤ書95

 

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」          マタイによる福音書21920

 

 

 

序・すべての人、万民の救い主、イエス・キリストの福音

 

 マタイによる福音書は、主イエス・キリストの復活・昇天の後、2030年程の頃に書かれたものであり、主イエス・キリストが、ユダヤ人という歴史的枠組みを超えて、異邦人の救い主、すべての人、万民の主であることが、大胆に告げられるものです。

 

1・イスラエル十二部族のヨセフを産んだ「ラケル」

 

 マタイによる福音書1章には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)があり、そこでは、ダビデの子(直系)として、ヨセフ、そして、イエスが生まれたことが証しされています。そして、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを・・もうけた」とあります。この「兄弟たち」とは、ユダを含めて、イスラエル(神が、ヤコブに名付けられた新しい名:創世記3510節)12部族と呼ばれる兄弟であり、そのうち、ヤコブの妻、ラケルの子が、ヨセフ(エフライムとマナセの父)とベニヤミンです(創世記3024節、3518節)。

 

 ヨセフと聞けば、このヤコブの子、ヨセフがおそらく多くの最初に福音書を聞いた人には思い起こされたことでしょう。

 

2・今、死の危険と試練の中で守られた、主イエスの「命」

 

 ヘロデ王の暴虐からヨセフ(父親)・マリヤ(母親)・イエス(幼子)の逃れた場所は、ヤコブの子ヨセフが奴隷として売られた地、エジプトでした。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア書11章1節)であり、幼子イエスのエジプトへの避難とユダヤへの帰還をもって、主が先だって預言し、主の御守りの中に、幼子イエスの旅路とその試練が物語られます。

 

 ヘロデは自分を子供扱いされたように思い立腹し、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)のです。それは決して誇張表現ではなく、真実をそのままに書き記したものです。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらうともしない、子供たちがもういないから」(18節)とは、エレミヤの預言の実現であり(エレミヤ書3115節)、ラマ(エルサレム北方8キロに位置)での捕囚時の嘆きが再び思い返されます。

 

 そして、三つ目の預言は、「彼はナザレ人と呼ばれる」という言葉ですが、この言葉は、直接の(旧約)聖書の引用ではなく、さげすまれた人を意味します。じつに、「彼は軽蔑され」(イザヤ書53章)、「人間の屑(くず)、民の恥」(詩編227節)とされた御方こそ、万民の救い主、希望の源でいます、栄光の主、イエス・キリストです。

 

結・主イエスの中にある「まことの希望」

 

 じつに、イエス・キリストは、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(ヨハネ145節)と呼ばれ、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(同146節)とさげすまれた土地で育ちました。そのすべてが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書114節)との声への、主の御守りと良き備え(摂理)てでした。「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(詩編1124節) 福音の光の中を歩む道を備えられた、主イエスの深い憐れみの中に、信仰告白を確かにしましょう(ヘブライ人への手紙415節)。

 

 

 

 

2017123日 主日公同礼拝 説教 聖書朗読 箇所

 

 

 

ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。

 

王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

 

                                   イザヤ書96

 

その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は変わることがない。

 

                            ルカによる福音書13233

 

序・「ここに愛があります」

 

 「ここに愛があります」(ヨハネ一410節)、「かみのちからはわたしのよわさのなかにかんぜんにあらわれる、ああよわいときこそわたしはつよいのです」(コリント二129節より)、「神のなさることはすべてときにかなってうつくしい」(伝道の書[コへレトの言葉]311節より)とのさんびとともに、婦人会主催クリスマス会のとき(121日講師:橋本るつ子姉)をともにしました。神の備えられた時のうつくしさを、ただ、神に感謝いたします。

 

1・天使ガブリエルの告げた、神の約束の実現

 

 世界ではじめてのクリスマスは、御子イエス・キリストの降誕です。ここにある小さな、しかい、神の御業による栄光に満ちた、贖いの命の始まりは、聖霊の導きの中に、永遠の救いの喜びを世界のすべての人々にお伝えする召しと光栄の中で、物語られています。  

 

 預言者イザヤの告げた御言葉に照らして、天使ガブリエルがマリヤに告げた言葉を受け入れるとき、決して、この言葉が、生まれた幼児にある称号を初めて与えたものというよりも、永遠の神の独り子が、人となられたということがあらかじめ備えられたものであることを伝えます。

 

 神は、神のあらかじめ備えられた救いの約束の実現を、一貫して、ザカリヤ、エリサベト、マリヤ、ヨセフ、羊飼いたち、占星術の学者たち、シメオン、アンナたちに、告げるのです。

 

 ヨハネによる福音書では、御子が、万物を造られた神であることが、「はじめに言があった」「言が肉となった」と最も大胆かつ鮮明に告白されます。ヘブライ人への手紙では、天使、モーセにまさる御方として、キリストの卓越した在り方が、指し示されます。それは、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1章1節)と言われるとおりに、御子による神の啓示を、わたしたちの生涯の第一にすることを意味します。それは、言いかえれば、自分のすべての価値(観)を、キリストの栄光のもとに服させるということです。

 

2・神から与えられた分を、ただ謙そんに担うために

 

 アシュラム運動で広く知られた、榎本保郎(やすろう)牧師は、「ちいろば先生」として知られました。それは、エルサレムに入場されたときに、イエスさまがあらかじめ用意された「子ろば」にちなむ名前です(ルカによる福音書1935節)。

 

 弟子たちは、主の受難の時、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と話し合っていたほどに、本当のイエスさまの来られた目的を知りませんでした。しかし、この時、主イエスは、主の支配権を使徒たち(教会)にゆだねることを約束されました(ルカ2224節以下)。

 

 主イエスを頭とする教会は、ただ、キリストの命によって新しく生まれた神の子たちの集う、神の家族、神の家です。しかし、教会には罪と弱さ、また悪の誘惑があります。御子お一人だけが、罪のない、完全に清い正しい御方です。ですから、天使ガブリエルの告げた御心のとおりに、主イエスをまことの王として受け入れるとき、わたしたちは、キリストの御守りの中で、キリストのからだとして生きるのです。永遠の契約の仲保者キリストこそ(テモテ一316節)、真の「神を示され」方、告げられ、明らかにされた御方です(ヨハネ118節)。

 

結・十字架の主に贖われた命の交わりを分かち合う

 

 まことの教会は、キリストのみを愛し、神の家族とされた者たちをお互いに大切にし、尊ぶものです。真の神を「我等の父」と呼ぶ主の祈りを真心からささげましょう(ローマ815節)。「私たちが教会に来るのは、神がその御子イエス・キリストをこの世におくって、ご自身の愛を私たちにあらしてくださったことによるのである。主は私たちのために十字架にかかり、既によみがえて、私たち一人一人のために永遠の生命をかちとってくださったから」(榎本保郎著 「ちいろば余滴」141頁)。「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった」(詩編122編)の歌のごとくに、主の家に、まことの平和を祈り求め、共に歩みましょう。

 

 

 

 

 

 

20171126日 主日公同礼拝 説教 聖書箇所

 

 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。    イザヤ書9章5節

 

 そこで、マリヤは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。・・」             ルカによる福音書1章46節

 

 

 

序・インマヌエルの主を迎える日:クリスマス

 

 今週、121日には、橋本るつ子姉をお迎えし、婦人会主催クリスマス会を開きます。(「我が恵み、汝に足れり」、インマヌエルの主がお生まれになった!)この「我が恵み、汝に足れり」の御言葉は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント第二129節)との御言葉。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」意味(マタイ123節:イザヤ714節)。

 

1「平和の君」キリストの支配する国を祈り求めつつ

 

 イザヤ書9章の預言も、キリスト預言と呼ばれ、ここで、主イエス・キリストは、「『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」、と預言されています。この預言の背景にあることは、一つの国家的勝利です。そして、この国家の王は、キリストであると宣言されています。つまり、この国家とは、主の祈りにおいて、「「み国をきたらせたまえ」という、第二の祈願で私たちが祈る事は、サタンの王国を滅ぼしてくださるように、恵みの王国を進展させ、私たち自身と他の人々をそこに入れ、その中に守ってくださるように、また栄光の王国を早く来たらせてくださるように」(ウェストミンスター小教理102)と祈り求める、「恵みの王国」であり、「栄光の王国」を指しています。この王国の主こそ、「永遠の救いの源」(ヘブライ59節)であり、大祭司である、イエス・キリストです。とくに今日注意したいのは、「平和の君」と呼ばれていることです。この「平和」とは、神との和解を見、また、人と人との平和が、この神との和解において、実現することを預言するものです。「平和を実現する人々は,幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ59節)

 

2・マリヤの告白をわたしたちの告白とするために 

 

 このキリストのもたらす、新しい平和を、わたしたちは、エリサベトとマリヤの交わりに見ることができます。マルティン・ルターは、「いずこの家にも」(讃美歌101番)を作詞しました(1535年)。愛娘(まなむすめ)マググレーナが13歳で御許に召された時(15429月)、こ一家で列をつくって歌ってきた、この讃美歌を歌うことができなかったそうです(FEBC15662017.12「目はなお涙に濡れながら」)。「クリスマスは、世界中の全ての人のためにお生まれにあったという喜びの音信(おとずれ)を伝える、そのメッセージを聞く時ですけれども、そのメッセージを涙の中で聞かなければならない人がいる」(徳善義和)のです。そして、ルターはこの年、キリストの十字架の死と復活に与って生命の勝利を賛美し歌い上げる歌『天からみ使いの群れが来て』を作ったそうです。マリヤの賛美は、「私たちの信仰の基盤は、いつも、私のような者を神が心にかけてくださったということを知ることにある。」(榎本保郎:新約聖書一日一章)ことを教えるものです。「この卑しい女さえ、心にかけてくださいました」とのマリヤの告白を、わたしたちの告白とするために不可欠なことは、わたしの魂(感情)と霊(理性)を、創造主にして救い主にいます、神の御力と恵みに明け渡し、祈りと賛美をささげることです。

 

結・「平和の君」を、自分の家に迎えつつ

 

「あなたがたの中で苦しんいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコブ513節)との主の命令のとおりに自分の家に主を迎えましょう。